ニゲラのせい
~ 三月七日(水) 十四 ~
ニゲラの花言葉 夢を抱く
生まれて初めての体験。
今、俺はなんと。
授業中に、立たされているのです。
…………倒れかけてきた扉を押さえつけながら。
「このパターンは生まれて初めてだ。意外と腕が疲れるのです」
「すまんな、もう少しだから頑張れ」
こんな状況になった経緯にも。
いつものように、穂咲が絡んでいるのですが。
いま、その悪童の姿はここにありません。
授業中、昨日の一件で罪のなすり合いを始めた俺たちに両成敗が下されて。
二人で廊下へ出ようとしたら。
急に穂咲が、あたしは悪くないの―と叫んで外へ飛び出したのです。
その時、すくみ上るほどの音を立てながら扉を開いたのですけど。
勢いよく叩きつけられた引き戸が、がりっと異音を立てながらレールから外れ。
教室の側へ倒れてきたのです。
ひとまず俺が押さえたところで先生がやって来たのですが。
どういうわけか上手く元通りにはまらず、抜くこともできなくなり。
結果、こうして押さえていることしかできなくなりました。
「……だからこの場合は意訳の必要が出て来るわけだ。意訳と言っても、パターンがある。この例文で言えば……」
そして先生は、馴染みの業者とやらに電話をすると。
十分ほどで人を派遣すると返事をもらったとのことで。
俺を放置しつつ、授業を再開してしまったのですが。
十分で来れるわけないじゃない。
俺、何時間このままなのさ。
「以上。今のところは、大学受験では必須のポイントだ。しっかり覚えておけ」
……大学受験か。
六本木君、試験勉強を始めたって言ってたな。
俺は専門に進むつもりだけど。
それでも試験があるわけで。
頑張らないと。
――それぞれの進路。
それぞれの道。
今週末には卒業される三年生の皆さんも。
それぞれ、まったく別の道へと旅立つのです。
今は同じ大通りを歩く俺たち。
でも、あと二年もすれば、バラバラになるわけで。
大人への階段は、上らなければならないけれど。
それはとてもさみしくて。
それ以上に不安なのです。
……穂咲のおばさんとの別れも。
大人への階段の一つだというのでしょうか。
扉を押さえながら、未来のことなど考え始めたら。
頭の上に、教科書が落ちてきました。
「ぼーっとしておって。叶うはずもない夢でも見ていたのか?」
「心外な! ……将来の事を考えていたんです」
「じゃあ、合ってるじゃないか」
「ひでえ」
俺が先生に向かって口を尖らせると。
開きっぱなしの扉から、パワーショベルのお兄さんが教室に入ってきました。
「あれ? お兄さんが修理に来たの?」
「人使いの荒い現場だな。今日は測量だけって話だったんだが」
「予定を狂わせて済まない。修理を頼む」
先生が軽く頭を下げると。
お兄さんは、扉と俺を交互に見ながら返事をするのです。
「……なんだ、間に合ってるじゃないですか」
「ひどいな」
「申し訳ないが、早く直してくれ。辛いんだ」
おお、先生!
やっぱり、根っこのところはほんとに優しいあなたを、俺は……。
「扉が開きっぱなしで、寒くてかなわん」
「ほんとにひどい人だなあんた!」
お兄さん、珍しく笑い顔を浮かべたりしてますが。
とっとと何とかしてくださいよ。
クラスから湧いた笑い声と。
どこまでも俺をからかう先生に神経を逆なでされながら。
俺は、お兄さんがかっこよく工具を扱う姿を見つめていました。
慣れた手際で。
よどみなく。
あっという間にレールをドライバーで外すと、扉ごと床から離れたのです。
そしてひしゃげたレールを扉から外して。
代わりのレールを取り付けて。
扉を元通りにはめ込むと、丁寧に微調整を始めます。
……見惚れる。
その言葉の意味を、初めて知った心地なのです。
「お兄さんは、専門学校でそういうのを勉強したの? 大学?」
「いや。高校の時分にバイトとしてここに入ってな。仕事しながら覚えた。そのまま卒業と同時に社員だ」
へえ、そうなんだ。
「学校よりも遥かに実践的だ。あそこは結局、広く浅くしか学べねえだろ」
…………そうなんだ、知らなかった。
でも確かに。
学校の先に、沢山の道が広がってるわけだから。
広く浅くなるのは当たり前だよね。
「じゃあ、やることが決まってたら、進学しない方がいいの?」
背中越しに聞こえる授業より、はるかに大切なことかもしれない。
俺が小声で問いかけると。
お兄さんは仕事の手は休めずに、答えてくれました。
「将来設計が大事だ。何も考えてないなら、大学を出ておいた方がいい」
「……そのへん詳しく」
「やれやれ。例えば俺は、バイトの時分から数えて十年のキャリアがある。で、三年前に同い年の奴が大卒で入ってきて、そいつが四月からは俺の上司だ」
え? なにそれ?
上司ってことは、お兄さんよりお給料も上になるんだよね。
「その人の方が、工事がうまいって事?」
「奴にこの扉を修理させたら、二時間はかかるだろうな」
「……先生、分かりません」
「簡単な事だ。不肖の生徒に、その辺を分かりやすく説明できるのがあいつで、上手く説明できねえのが俺だからだ」
…………。
なんか、煙に巻かれたようなのですが。
それでもお兄さんは。
最後に、一つの光を見せてくれました。
「俺はな。こうやって自分の手で何かを作ったり、直したりするのが好きなんだよ。だから早いうちに独立して、もっと小さな規模の工務店の社長兼現場作業員になりてえんだ。……そういうわけで、この進路を取った」
おお。
なるほど、理に適っているのです。
よく、将来の設計をしろと大人は言うけれど。
初めて、設計というものがどういうことか、分かった気がします。
作業を終えたお兄さんが、俺を見ながら扉を指差すので。
促されるまま開け閉めした扉は。
よどみなく、なめらかに。
まるで、今の俺の心地そのまま。
流れるように動くのです。
大人から学んで、何が大切なのか自分で見極めて。
そして花屋とスタイリストだけじゃなくて、いろんな道を模索しよう。
将来どう生きたいのか、しっかり考えよう。
この扉のように。
からからと心地よく。
素敵な心地で、俺は将来を見つめることができ……。
「ただいまなの!」
ガラガラガツン!
めきっ!
「……たった今。俺の輝かしい将来に君が邪魔だということが良く分かりました」
再び扉を支えながら。
再び、心の中に暗雲を抱えながら。
すべてを台無しにしやがったこいつをにらみつけます。
この、俺の人生の障害物、
軽い色に染めたゆるふわロング髪に。
青く輝く、美しいニゲラの花を活けた女の子が。
その輝かしい花言葉とは裏腹に、俺に悪夢を運んでくるのです。
「……もう一本レールがいるな。取って来る」
お兄さんはそう言い残して、廊下に出てしまいましたが。
しばらくすると。
外から、軽トラックの音が聞こえたのですけど。
ははは、まさかね。
校内の工事現場にでも置いてあるんですよね。
……なんて考えは、もちろん甘かったわけで。
俺は、夜中にお兄さんが戻るまで。
ずっと同じ姿勢で立たされることになりました。
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