13 ナインの唄
ロキは、目の前の少女を救う方法があると言った。
相変わらず感情のこもっていない表情と声音だが、今はそれ以上に頼もしい言葉は無い。
「私に出来るんだね? じゃ、教えて! 私は何をすればいい?」
『歌ってください』
簡潔かつ迅速に、ロキはそう言った。
ナインは思わず、その場で思考停止してしまう。
しかし、長時間の思考停止は、周囲の状況が許さなかった。ナインはぷるぷると頭を振って、ロキに向き直る。
「この状況で、歌うの?」
『はい。音魔法:紅蓮の鎮魂歌を歌えば、指定した範囲の炎を抑制し、一定範囲内の生命体に生命力を与える事が可能です。実行するための準備を行います。よろしいですか?』
「よろしいも何も、それしか方法が無いなら、するよ? でも準備って何をすればぃ……ひゃぅ?!」
仕方無い、という感じで気合を入れていたナインだが、ロキの提案を受けた瞬間に、頭を抱えてうずくまってしまった。
何事かとクロウもユウトもナインの傍へ歩み寄るが、ナインは彼等の声を認識できなかった。
それは、脳、いや、魂へと直接知識が刻み込まれた事による、激しい痛みと眩暈によるものであった。
身体的にも精神的にも、ナインは強い。だが身体的な強さに比べると、どうしても精神は脆弱になる。これは生物として当然の事で、それゆえに『それ』は辛かった。
知識の刻印は時間にすると僅か5秒で済む。だが、その知識を理解するため、魂が悲鳴を上げる限界まで力を使うのだ。
結果的に、ナインは精神的な苦痛を味わっていた。
感覚的には「痛い」のだが、身体的には全く痛くない。という奇妙な現象に混乱し、またそれによって、刻印された知識の理解が遅れてしまう。
結局、ナインが苦痛から開放されたのは、歌1つ分の「知識」に対して、1分強の後であった。
「は、はぁっ、はぁ、はぁ、げほっ」
草の絨毯に手を付き、肩で大きく息をする。上手く呼吸できなくて、何度も咽てしまう。
うめいているだけで大して動いてもいないのに、ナインは汗でびっしょりと濡れてしまった。夏より暑い気候も相まって、気分は最悪だ。
それでも、まるで最初から知っていたかのように『歌』がナインの知識に刻み込まれている。
意識しなくとも、それがすらすらと音に変換出来るほど、その『楽譜』は鮮明に思い浮かべられた。
「大丈夫、なのです?」
「無理はするな」
優しげな2人の声に、ナインは頭を上げる。座り込んだ自分を、クロウとユウトが見下ろしていたのだ。ナインは2人に、疲れたように、けど精一杯の笑みを返した。笑顔に、なれた。
その歌を理解した時、苦痛に見合う以上の価値が、それに込められていると分かったから。
紅蓮の鎮魂歌。
それは炎を鎮め、傷を癒す、水と再生を司る女神に捧ぐ歌。
膨大な魔力を捧げて、特殊な雨を周囲に降らせる特殊魔法だ。どれだけ膨大と言われようと、ナインにとってはそれなりの量になる。つまり使用は可能なのだ。
この所歌っていない。練習をサボっていた。だが、感覚はまだ残っている。
ナインは一度だけ、深呼吸をする。
「……ロキ、マイク、ある? あるならスピーカーも」
『はい。ナビスキル:マイク、スピーカーを出現させます。スピーカーの配置……完了。どうぞ』
ナインは、目の前に浮かんだマイクを手に取った。重みのある、よく手に馴染むマイクだ。ナインが愛用していた練習用の物と同じ形、重さである。
ナインは、感覚ではつい数週間前の事を思い返す。
それは、思いがけず最後となってしまった、歌唱のコンクール、それも世界規模の大舞台だった。
ナインは前世で10歳未満でありながら、世界中の人に歌姫と称されていた。周囲からは蝶よ花よと育てられ、評価は妖精から始まり、聖女、天使、女神とグレードアップしていった。
ナイン自身、歌う事は好きだ。大好きだ。趣味であり、仕事であり、周囲と自分を繋げる手段でもあったのだ。歌の技術を磨くのは当然で、当然と思える環境だったからこそ常人なら苦痛とも思えるレッスンを、楽しんで乗り越えてしまった。
彼女は、天才だ。
最初こそ僻み、妬む者もいた。今もそうかもしれないが。
しかし、彼女はお調子者な気質はあるが、歌に関する事だけなら、子供ながらに大人気ないほどの本気でがんばった。
がんばった、それだけで、彼女は歌の世界における世界的スターに君臨する。
その、歌の女王となって間もない彼女の死は、世界の損失であり、同時に世界の崩壊までもが確定してしまったほどの大事件である。
もっとも、彼女自身にその自覚は全く無いが。
何せ好きな歌を歌っていただけなのだ。コンクールで優勝するのも、両親に褒めてもらいたかったから、弟に自慢したかったからであり、決して世界のために歌っていたわけではないのである。
しかし、この世界には、褒めてもらうための両親はいない。自慢できる弟はいても、両親がいないと歌う理由が思いつけない。
そういうわけで、歌は軽く一週間は練習していないので、不安はあった。だがそれ以上に、ナインの心は高揚感に沸き立った。新しい曲が歌えるのだ。これ以上に嬉しい事があるだろうか!
両親がこの場にいない事は悲しいが、歳の離れた弟に初披露し、久々の再会を果たしたユウトにも、ちゃんと聴かせたいとは考えていたのだ。
それが、これほど早く実現するなんて。
金色の瞳がキラキラと輝き始める。
マイクに声をかけると、遠くから自分の声が聞こえてきた。
電源は入った状態である。
ナインはマイクを握る手に、力を込めた。
「―― 行くよ」
ふわり、と、冷たい風が吹きぬける。
それは旋律。歌詞などは無い、ただの旋律だ。あ、とも、う、とも聞こえるような、不思議な声がナインの口から紡がれる。
ナインが歌い始めたと同時に、身に着けているワンピースがふわりと揺れて、周囲に蒼と紅の光の粒子が舞い始めた。
粒子は煌きながら散らばり、空気に解けていく。
「――…… 」
ナインの声が、響いた瞬間。
木々が燃えて爆ぜる音、熱風により発生した上昇気流。あらゆる音が、現象が、ナインの歌声に聞き入った。ナインの歌声以外の現象が、その動きを止めた。
激しく、それでいて厳かな、不思議な旋律だ。
歌詞は無いのに、旋律だけで物語が生まれていく。
全ての物語は、冷たい雨となって大地に降り注いだ。
抑揚、息遣い、動作。それら一挙一動にありったけの感情と力が込められ、音が響く度に空気を揺らし、心を震わせる。
空の色は変わらない。憎たらしいほどの青空から、1滴、また1滴と零れ落ちた。その光景を見た者は、すべからく、まるで空そのものが雫になって、地上に落ちてきているかのような錯覚に陥る。
天気雨にしては土砂降りの大雨になっているが、不思議な事に、ナイン達の足元に水溜りが出来るような様子は見られない。
ただただ炎を消し、傷を癒すためだけに降り注ぐ雨は、濡れる感覚だけを残して、誰も、何も、濡れさせない。
歌が聞こえない場所に、キューブ型のスピーカーが飛んでいく。
世界に、ナインの歌声が浸透していく。
「……この雨、温かいのです?」
「触れた時は冷たいが、身体の奥から温まるような……」
炎を鎮める冷たい雨は、炎に触れる度にその熱を奪う。
しかし同時に、傷付いた者達を癒していくのも、同じ雨なのだ。
3人の傍にいた少女の酷すぎる火傷も、雨が当たる度に真っ白な蒸気を発しながら癒えていく。雨が当たる度に新たな皮膚と入れ替わり、焦げた部分が剥がれ落ちていくのだ。
剥がれ落ちた黒い皮膚は、なお雨に当たり続け、その身を小さく縮こまらせていく。
その現象は、既に灰と化していた木々にも例外無く起こった。
どれだけ焦げていようとも、原形を保った物は若々しい木肌に生まれ変わる。完全に燃え尽き、根元から折れた木も、根から新たな若木が伸び始める。
逆に、大火事を起こしたマグマガメ(仮)は、命の源でもあった器官をやられていた。
マグマガメ(仮)の体内には、超高熱のマグマを生み出す器官がある。人で言う血液こそ、そのマグマであったため、そのマグマ自体を封じられた今、彼等は生命活動を停止せざるをえなかった。
10体ほどもいたマグマガメ(仮)は、ほどなくして、その全個体が地上へと墜落する。
……こうして、歴史に残る大火事は、奇跡によって鎮火されたのだった。
しばらくして、焦げ臭さも無くなった清々しい森の中で、少女の吐息が漏れる。
ゆっくりと目を開き、眼前に広がる緑を認識して、跳ね起きる。
「あぅ」
だが、全身が、特に両足が酷い筋肉痛になっていた。
喉は非常に渇き、小さく出てきた声はハスキーなものに変わっている。
少女は、水場を探そうと周囲を見渡した。
すると、真っ白な女の子が、いつの間にか目の前に立っているではないか。
女の子は、細い腕を少女に差し出していた。
「これ、飲む? 飲んで!」
少女は差し出されたグラスに、条件反射で手を伸ばした。ひんやりと冷たくなったグラスを、両手で包み込み、なみなみと注がれた中身を一気に飲み干す。
「……っ、ん、く、ぷぁっ」
冷たい水が喉を通る。身体が火照っているらしく、身体はすでに無くなってしまったグラスの中身を更に欲しがるように、少女の視線をグラスに釘付けにしてしまった。
「おかわり、いるよね? はい」
少女が飲み終わるのを見計らって、いつの間にか、グラスの中身はまた一杯になっていた。少女はそれも飲み干す。だが、今度は少しずつ、味わうようにゆっくりと飲み込んでいく。
冷たく、甘さを感じる、とろみを感じるような不思議な水。
同時に、無意識に体勢を整えようとして、足を動かした。突如として、痛みが再発する。欲していた水が手に入ったためか、水を飲む事に集中していた感覚が、痛みを認識し始めていた。
と、同時に、我に返る。
少女の足は、使い物にならないくらいに酷使し、更には炭化するほどの火傷を負っていたはずだ。
服は炎で焼け焦げているものの、少女自身の身体は、筋肉痛以外にケガらしいケガは見当たらない。足はもちろん、腕、胴体、見える場所全てを見て、ようやくおかしな事態に気付いた。
「……な、んで」
ケガが無い。ついでに、周囲が焼けていない。
焦げ臭くない。更にはむしろ心地いい涼しさと静けさがある。
痛みがある時点で気付くべきだったが、少女はようやく、事の重大さに気付いたのだった。
「えっと、何でっていうのは、私が何でここにいるのかっていう事? それとも、貴方のケガの事? それとも、森の様子について?」
そうだ、先程から横にいる女の子もちょっとおかしかった。
武装らしい武装は全くしていない、上から下まで見事に真っ白な女の子だ。幼いが、エキゾチックな彫りの浅い顔立ちの中に、大人びた印象を受ける。
輝くプラチナの髪、薄い金色の瞳、少女らしい赤みを帯びた頬。
背丈からして、少女よりも幼い。だが、そこら辺の大人をも凌駕する、圧倒的なオーラを纏っていた。
少女は人一倍、鋭い感覚を持っている。だからこそ、目の前の女の子が……ナインが、無意識に隠していた膨大な魔力を感じ取れた。
感じ取れてしまった。
そして、理解する。
彼女もまた、龍を忌避する集団にいた。だからこそ、理解させられてしまう。
龍とは、最強の生物である。
その1点のみが、彼女の心をきつく締め上げた。
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