十五

 静かに泣いていた昴は、やがて口元を震わせ、顔を歪めて泣き続けた。止めどなく涙が溢れて、僕の手と昴自身の膝を濡らす。昴は顔を手で覆ったけれど、指の隙間から涙は溢れ出てくるのだった。

 僕は本当に、どうして彼が泣いてしまったのかわからなくて、触れたくて、でも僕なんかが触れていいのかわからなくて、戸惑った。手を握りたかった。その頬に触れて慰めたいとすら思った。泣いている原因の一端は僕かもしれないのに。結局僕は、濡れ続ける昴の膝頭をいつのまにか掴んでいた。しっかりしてと伝えたかった。

「なんで泣くの」

「……、…………、」

 声にならない音を漏らして、昴は首を振り続けた。

「……見るな、ばか…」

 かろうじて吐き出された掠れ声がそう言ったから、僕は昴から離れて視線を逸らすしかなかった。隣に座れば尻が何かを踏んで、見ればそれはさっきまで昴が読んでいた雑誌だった。旅行雑誌だ。



『中秋の名月、フォーマルハウト、アケルナル』

 2015年9月27日(旧暦8月15日)は【中秋の名月】、旧暦9月13日の月は民謡『月ぬ美しゃ』に謡われる「十三夜の月」。澄んだ夜空に浮かぶ付きの姿は、また格別です。みなみのうお座のフォーマルハウトは、他に明るい星がなくポツンと光って見えるため「秋の一つ星」と言われていますが、八重山諸島では、南の水平線にもう一つの一等星アケルナルも見えます。南の島の星空は、あなたを一人ぼっちにはさせません。



 それを読んで、幼い頃の昴の言葉が蘇った。

『沖縄に行ったら、おれの大好きな星が見えるんだ。アケルナルっていう一等星なんだよ。おれ、いつか沖縄に行くんだ。父さんはもう転勤しないっていうから……大学とか、しゅうしょくとか、沖縄に行くんだ』




「ねえ、どうして泣くのさ。悲しいの。俺の気持ち、そんなにいやだったか?」

「ちがう……」

「じゃあなんで。言ってくれないとわかんないよ。なあ、子供の頃みたいにさ、俺にはなんでも話してよ。俺寂しかったんだよ、二人だけで友達だったのにさ、昴がたつや花織とも仲良くなっちゃって、もしあのまま二人だけでいられたら、俺は君にこんな気持ち抱かずに済んだかもしれないね。ずっと友達でいられたかもしれなかった。俺わかってるんだよ。俺が昴を好きになったのは好みだったからっていうのももちろんあるけど、こんなに拗らせちゃったのは、昴が俺の手の届かないところに行っちゃったからだって」

「最初にあいつら連れてきたのは、ハルじゃんか」

「そうだっけ?」

「そうだよ。それで、俺は……お前だけでよかったけど、あいつらがたまたま、なんの偶然かな、どっちも星だったから、ならこいつらならいいかって思って、」

「僕はただの人間だよ、昴」

「知っとる」

「なんで僕とは友達になってくれたの。僕は特別だったの? でもその割に蔑ろにしてくれたじゃん」

「先に、離れてったの、ハルじゃん」

「そうだっけ……?」

「そうだよ。お前が俺と距離置いたんだよ。だから俺は傷つい……そう、傷ついて」

 昴は、手をずり下げる。真っ赤な目が現れて、僕を爛々と睨みつけた。

「俺は、最初はお前だけでよかったのに」

「……うん」

「お前が離れて、距離置くから。お前が俺を好きなのくらい、最初から知ってたのに。離れてっただろ。お前は、その気持ち、否定してんだなって思ったらムカついて、もうどうでも良くなった。だからやっぱり人間やめて星に戻ろうかな、体が潰れたら戻れるのかなって考えてた。そしたら、お前が、よりによってお前が帰ろうっていうから、泣きたくなって」

「……歩道橋」

「そうだよ」

 昴の目が星のように燃えている。

「……覚えてない。それ、小学生の頃だろ。そんな……まだ俺はその頃自覚なかったんだよ。俺がお前と距離置いたのは中学に入ってからのはずだよ」

「ちがう。お前はガキの時から距離を置いたんだ。花織と龍祈を連れてきて、一歩引いたところから俺を見るようになった。花織と俺が小競り合うの羨ましげに見るくせして、自分から来なくなったんだよ」

「そん、な」

 覚えがなかった。でも、多感だった昴にはわかってしまったんだろうか。

 僕が自覚なく、昴には花織の方がふさわしいと勝手に決めつけたのを感じ取ったのだろうか。

「だから俺はさァ、お前は俺と生きてくれないんだなって思ったんだよ。お前なしで人間として生きていけるようにしようと思ったんだよ。寂しかったよ。寂しかったところに花織が入り込んできたんだ。そのうち惚れてさ、都合がいいと思ったよ。龍祈がいなくなって、花織が潰れていくから、じゃああいつに人間としての人生捧げようと思った。そうしたら星であること忘れられる気がした。でもさ。でも、ずっと後悔がつきまとうよ。俺はただ、お前と一緒にアケルナルを見に行きたかった。お前に俺の星を見せたかった」

「……か、花織と見にいけばいいじゃないか。俺である必要、なんて」

「花織に話したことなんてねぇよ!」

 昴は雑誌を床に投げつけた。

「俺が、俺がさ、星じゃないお前を選んだわけを、お前がわかるはずないじゃんか。だから言っても仕方なかったよ。でもさ、もうわかるよな。わかるんだよな? 考えれば」

「……ま、って。追いつかない。待ってよ、昴」

「いまさら、」

 昴は立ち上がって空笑いを零した。

「いまさら俺がお前を選べたとして、お前は喜ばない。これだけ本心言っても困ってるだけじゃん」

「え、え? ねえ、昴」

「お前、ただの残り火で俺のこと好きなだけなんだよ」

「は……?」

「お前、あの人の方がもう好きじゃん」


 僕は、それが誰を指しているのかわかってしまった。瞬時に理解した。


「柳楽日向の方が、好きじゃん。好きになりたいんだろ。だから俺に花織を押し付けるんだ。自分がさっさと精算して俺を捨てたいから」

「……ちが、そうじゃないよ!」

「そうだよ」


 昴は手首で目を拭うと、捨てられた子供のような目で僕を見下ろす。


「俺、心変わりするやつ大嫌い」


 だから一人にしてくれって言っただろ。


 そう言って、昴はまた僕の前からいなくなった。

 白熱灯が、ちらちらと点滅して、消えた。



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