十四

 扉を開くと、中は書庫だった。狭くて、人二人分がやっと通れるような幅の通路しかない。両サイドには本棚がある。

 ドーム状の天板からは宇宙の星々が見えている。天井付近まで棚は高く伸びていて、本がうず高く積み重なっている。ちらほらと本が収まっていない空間も散見され、その空いた場所には埃が積もっているようだった。

 床は牛乳をこぼしたような乳白色が無色透明の石に溶け混ざり合っている、不思議な色彩だった。踵を当てるたび、体重がかかったその部分が真っ白く濁っていく。透明の底には暗闇がある。照明は立体星の形で、淡い白光を放っている。

 通路の奥にはワインレッドの大きなソファーがあった。そこで昴が肘掛けに両足を置いて横になっていた。何かを読んでいる。昴は僕の足音に気づいて少し身じろぎしたが、視線を寄越しはしなかった。

「昴。頭は冷えたか?」

「知らん」

「知らんってことはないでしょ。自分のことだろ。子供っぽいよ、昴」

「うるせぇし」

 僕はソファーの前に座り込み、じっと昴の横顔を見つめた。

「ねぇ、昴」

「うるさか。一人にしろ」

「いやだよ。なんだか一人にしていたらダメな気がするんだよ。俺の勘は当たる。覚えてるか? 小学生の時、昴、歩道橋から飛び降りようとしたことあったよね」

「……いや、別に飛び降りるつもりじゃなかった」

「歩道橋の柵に腰掛けて、じっと眼下の道路を睨みつけてた。みんなが危ないって言って引っ張って、そのたび面倒くさそうにしてたの覚えてる。俺は昴がそこに座り込むのを止めなかった。一度だけしか」

「………」

 昴は体をゆっくり起こすと、片足を下に降ろした。

「覚えてるでしょ。俺は一度だけ止めた」

「そんなことあったかな」

「ある。いつものように座ったお前の服を引いて、帰ろうって言ったんだ。いつもはずっと昴の気が済むまで待ってたけど。あの時、昴はあそこから飛び降りてやろうかと思ってた」

「は、それで止めたって?」

「止めたと俺は思ってる。あの日だけ、お前の目が違ってた。何かに腹を立てているような、全部面倒くさいと思っているような感じで、怖い日だった。その後も何度か登ってたけど、そのうちやらなくなったよね。昴はそれからも何度かそういう時があったよ。必ずそういう時は怒ってるんだ。寄せ付けない感じで怒ってる。俺は不思議だったよ、昴。昴って本当は気が短いよね。でも、普段はほとんど怒らないんだ。イラつかない。でも怒った時は、死を考えてた。違う?」

 昴はここにきて初めて僕をまともに見た。睨みつけるように細めた目で。

「お前の怒りはいつも死と隣り合わせだったんだ。お前はいつも、絶望を怒りでしか表現できないやつだったんだ。花織と知り合ってからは、花織の方が俺なんかよりずっとお前の苛立ちに敏感で、お前を追いかけて慰めてくれてたよね。多分俺が気づいた分以上に花織がお前の機嫌を直してきたことがいっぱいあった」

「お前、今なんの話をしてんの?」

 昴は静かな声で言った。その声に苛立ちはない。威圧感は薄れていなかったけれど。僕は震える手を抑えるように拳を作って強く握り込んだ。

「昴の心を知りたくて、整理してるんだよ。今までのことを」

「それになんの意味があるんだよ」

「昴が自分を捨てようとしている気がするからだよ」

 昴はいっそう目を細めた。

「それを止めたいんだ。だから、こうして話しかけているんだ」

「なんのためにさ」

「自分で言ったじゃないか。俺がお前のこと好きだからだよ。お前が消えていなくなるのは自分が死ぬよりいやなんだよ。だからだよ」

 昴は戸惑うように片眉を上げ、目を瞠った。

「俺は、お、俺はね、この気持ちだけは、お前に、知られないようにって、してた。でも、知られてたんなら怖いものなんかないんだよ。だか、だから言わせてもらうからな」

「吃ってんじゃん」

「緊張してるよ! するに決まってんだろ!」

 本当は、口の端が痙攣していて、どんな顔で言葉を発しているのか自分でもわからないくらいだ。きっと相当不細工な顔してる。でも僕は続けた。

「俺は、俺はさ、昴がずいぶん早くから、花織のこと気に入ったの気づいた。気づいたよ。そうさ、ずっと見てたからね。花織に嫉妬したよ。だって、俺の方が長く昴といた。俺の方がさ、昴をよく知ってたはずだったよ。なんで女がいいんだよって、ムカついたよ。俺を選んで欲しかった、俺を見てくれって、すごくすごく苦しくて、それで、気づいたんだ。お前のこと、多分、友達以上なんだって」

 胸を押さえながら吐き出すように言った。時々咳き込みそうになる。息の仕方がよくわからない。まるで水の中で溺れかけているみたいだ。でも、今勢いで言ってしまわないと一生言えないような気がしていた。

「そ、そのうちさ、花織の方が、昴といる時間、多くなってさ。むしろ俺は昴のこと知らなくなっちゃって。ああ、これが選ばれるってことと選ばれないってことの違いで、運命ってやつで、俺が女じゃないから、選んでもらえない、多分一生って思った。お前は同性愛、嫌いそうだったから」

 昴は不快そうに眉根を寄せて、僕を見下ろしていた。薄く開かれた口からは、顔つきにそぐわない優しい低音が溢れるのだった。

「……まずお前は息を整えろよ。過呼吸みたいになってる。苦しいんだろ」

「……そ、する、けど」

 ケホケホと咳き込む。その背に昴の大きな手が触れて、トントンと叩いてきた。

「そうだよ」

 昴は穏やかな声で言う。

「俺は同性愛嫌いだよ」

「……っ、」

 心臓が弓矢で穿たれたような気がした。苦しくて痛くて、それさえ愛おしい気がする。どうしてここまで苦しくて、まだ好きなんだろうと思ってしまう。

「でも、お前は勘違いしてるよ、ハル。俺は、異性愛も嫌いだよ。愛が全部嫌いだよ」

「……は?」

「欲をかき立てる愛の全てが嫌いだよ。自分がどうしようもなく人間だと刷り込まれてしまうからな。なあ、高尚な星なんだと信じ続けてきた自分が、女の体に興奮して精子吐き出した時の絶望、わかる?」

 わかんないだろうなあ、と昴は口の端を吊り上げた。

「ここは自分の居場所じゃない、疎外感を抱え続けて、親兄弟クラスメイトと感覚の違いにうんざりして、でもそれは全て俺が星だからで、いつかは自分の本当のいるべき場所に戻れるから今は耐えればいいって言い聞かせてきたんだよな。でも体はやっぱり人間なんだよ。わかるか?」

 昴は足を組み、首を傾げて優雅に笑った。その姿は彫刻みたいに神聖で美しい。

「お前らは知らなかっただろうけど、親にはな、俺のこの尊大さと傲慢さを散々なじられて抑えつけられてきてたよ。他人にゃわからなくても四六時中生まれた時から見てる親は俺の性質をやっぱりわかっちまうんだよなァ。そんな性根である限り、他人とうまくやっていけないだろうって矯正されるんだよ。俺にとって実家はな、俺という異端者の矯正施設だ。ずっとずっと抑圧されて、本当に自分が星なのかどうか、ただの妄想野郎で、頭がイカれてんじゃねぇかって思うことがないわけないだろう? そこに来て、性欲だよ。人間の本能。食べる、寝る、それくらいはそこまで気にしたことがなかった。人間の体なんだからそんなもんだろって思ってたよ。でも性欲はだめだな。自分が人間なんだってまざまざと知らしめてくるんだよ」

 昴は自分の右手を穏やかなように見つめた後、憎らしげに顔を歪め、爪が食い込むほど拳を強く握った。

「なあー、ハル。お前はこう言いたいんじゃねぇ? 花織が女で、俺が死にたくなるのをいつも止めてくれる、人である俺を地上に繋ぎ止める命綱だから、花織を選んだんだろって。そうだろ?」

 僕は、二の句を告げずにいた。昴の言う通りだった。僕は、昴が自分で思っているよりも花織のことを好きだろうと思っていた。だからその気持ちを二人で話しあって、思い出してもらおうとすら思っていた。

 傲慢は僕の方に違いない。

「それね、表の言い訳な」

 昴は楽しそうに口を歪めた。

「俺はね、花織も俺と同じ星だと分かったんだよ。出会った時からな。たつのこともそうだよ。だから付き合ったんだ。自分よりは格下の星だが、他の人間よりはマシだろ? でさ、この体が女に興奮しちゃうなら、花織を好きになればいいって思ったんだよ。花織は同じ星だから、惹かれるのも道理だよなあ? 俺の自尊心を守れるんだよ、花織を好きだと思い込めば」

「な……、じゃ、じゃあさ、まさか、本当に花織のことなんか本当はどうでも良かったって言うのか!?」

「さあ。知らね」

 昴はすんとしてソファーの背もたれに体を預ける。

「好きだよ」

 そうして、ぽつりと、零す。

 どこか遠くを見つめながら、昴は静かに愛を呟いた。

「本当に好きだったよ。だから嬉しかったよ。人間として生きていく理由ができるからさ。花織がいつ星に戻るのか、戻る気があるのかすらわからなかったけど。花織は人間である自分を好きだったみたいだからよ。星に戻りたい気持ちと、人して生きていきたい気持ちの狭間なんだよ。一言で言い表せねえんだよ。でも、ただ好きなだけのお綺麗な感情でもねぇんだよ。……自分のために好きになったのか、惚れた後づけを必死にやってるのか、自分でもわかんねぇ。だって体が喜ぶんだよ。花織といると体が熱くて心許なくて、幸せなような気がしてくる。それが多分人間のいう恋だろうがよ」

「じゃあ、図星だったんだ」

 僕は、喉の奥の苦しさを我慢して言った。

「花織に言われたことも当たってたんだ。だからやけになったんだ。なんだ、ただ拗ねただけじゃないか。やっぱり昴は、花織が……っ、好きなんだよ」

 体の内側が焼けるように熱い。花織じゃなくて僕が燃えることができたらどんなにいいだろう。

「なら、そのまま素直に言えばいいじゃん。めんどくさいやつ。ほんと、めんどくせーやつだな、昴」

 でも、僕が燃えたところで役に立ちやしない。そして僕は花織のために一緒に燃えてやることもできない。僕は花織を愛してないから。

 好きだけど、恨んでるから。妬んでいるから。

「そんなに、そんなに好きならさ、花織と一緒に、燃えてやれよ。愛し合ってる二人なら、さそりのひも無駄にはならない。今度こそ二人、お星さまに帰れるじゃん。一石二鳥、三鳥。はは。そうだよ。何やってんだよ、たつがいるんだぜ。奪われないようにちゃんと謝ってきなよ」

「……ハル、お前本当に俺のこと好きなんだな」

「うるさいなあ!」

 拳を振り上げて下ろしたら、昴の脚すれすれに落ちた。こんな時でも、うっかり昴を傷つけなくて良かったなと思っていた。そうだ、僕は本当に昴のことが、焦がれるほど、焼けるほどに好きなので。

 ……そうしたら、ぽたり、ぽたりと何かが僕の手に落ちてきた。

 濡れている。

 ハッとして顔を上げたら、昴が声もなく涙を流していた。


 僕は、昴が泣いたのを初めて見た。



 どうして泣いてるの。


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