十六
暗闇の中で立ち上がったら、よろめいてしまった。僕は信じられない気持ちで床を見ていた。僕はいったい幾つの罪を重ねている? 僕の思い込みと誤解がもたらしてきた何かの大きさを考えて、背筋が粟立った。
母さんの指輪を無くしてしまった時と何も変わっていない。ずっと大事なものを取りこぼしてきたのかもしれない。今の僕は指輪を見つけ出せるだろうか。もしまたなくしたら?
……今から無くすのは、花織と昂の両方かもしれない。あるいは龍祈だって。
昂に、本当は選ばれていた。捨てたのは僕の方だった。
書庫の扉を開いて廊下に出たら、柳楽さんが壁に寄りかかっていた。形容し難い表情で僕を見つめてくる。
「……聞いてた?」
「聞こえてた。結構この廊下響くよ」
「そ……か」
顔に熱がこもってしまう。どこから聞いてたんだろう。柳楽さんも居心地が悪かったに違いない。
「……昂、どこに行きました?」
「奥の方だよ、暦海クン。あっちは体育館だっけ」
「そう……そうです。でも、今は行かない方がいいかな」
「君の好きなようにすればいいさ。これまでもずっとそうしてきたんだろ、暦海クンは」
柳楽さんは目を細めて笑う。これは冷笑だと僕にもわかった。
「ずっと好き放題やってきたんでしょう。自分のことばっかりでさ。キミっていっつも自己中なんだよ。それでいて人の気持ちを勘繰って、誤解するんだ。そうして勝手に病んで、そうしてオレのところに転がり込んだでしょう」
「………、」
「それで? 今度はオレに惹かれ始めてんの? 初耳。まあ本人から聞かないとね。わかんないからね。そこんとこどう?」
「……柳楽さん、怒ってる?」
「そうだね、ちょっと怒ってるかもしんないよ」
「……ごめん、巻き込んでて」
「またそうやってオレの考え決めつけたでしょ。オレがムカついてんのはねぇ、キミなんかには思いもよらない所だろうから。的外れな心配しなくていいですよ」
「………、俺、」
「うん」
僕は青や緑や金色や赤色が揺らめく星あかりの下で柳楽さんをじっと見つめた。柳楽さんは表情ひとつ変えていないのに、いろんな感情がその奥に隠れているように見える。僕にはどれひとつ、上手く推し量ることができないけれど。
「……自覚、あったよ」
「へえ」
柳楽さんの声は冷たかった。多分やっぱり怒っている。
「……柳楽さんといると、すごく楽なんだ。息がしやすい」
「そうだろうね。キミのストレスにならないようにものすごく気を配ってきたさ」
「……それって負担だった?」
「別に。オレは元々そういう性分みたいだからね」
「……そう。俺……だから、一緒に暮らしてる間、ずっと……あんたを好きになれたら幸せになれるのかなって妄想してた。あんたの気持ちは……知らないけど」
「うん」
「……でも、昂のこと、忘れられなかったんだ。夢で何度も見るんだ。あの日伝えていたら変わったかなとか。あの時花織に嘘つかなきゃよかったとか。やり直したいってずっと思ってた。やり直せたら、今の俺はもっと違う風に日向くんと向き合える気がした。あんたが俺を好きでなくても昂の時みたいにつらくならないような予感があるんだ」
「……………へえ」
少し、柳楽さんの声音が緩んだ気がする。僕は息を吸って、呼吸を落ち着けた。
胸がドキドキする。こんな感覚、柳楽さんに覚えるなんて想像してなかった。柳楽さんを好きになる日が来るとしたら、もっと穏やかな気持ちだと思っていた。僕は、また人を好きになれていたのか。なりかけているのか。気づかないようにしていた。
だって柳楽さんもヘテロだと思っていたから。
「……お、俺のこと、柳楽さんは好きになれる……?」
「……昂くんのことはどうすんの?」
「わか、んない。まだ何も思い浮かばないけど、今、すごく胸が痛い。俺、ほんとに柳楽さんのこと好きだったのかもしれない。今考えなきゃいけないの、昂のことなのに、柳楽さんがいたから。なんでいるんだよ。頭整理できないじゃん」
「あはは、八つ当たり」
柳楽さんは笑った。
「……ま、それが恋なんでしょう。キミって恋愛脳だもんね」
「そう?」
「そうだよ。だからずっとウジウジしてんの。そこはオレあんまり好きくないけど……嫌いではないね」
柳楽さんは僕から目を離して、壁に浮かぶ文字を眺める。同じように視線を向ければ、そこにはちょうどこんな文章が書いてあった。
『カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。』
『うん。僕だってそうだ。』カムパネルラの眼にはきれいな涙なみだがうかんでいました。
『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。』ジョバンニが云いました。
『僕わからない。』カムパネルラがぼんやり云いました。
「ちょっと興奮してるとこ悪いけど、」
柳楽さんはゆっくりと口を開く。
「オレは、暦海と付き合うならネコの方がいいんだよね」
僕は息を呑んだ。
ネコ。
柳楽さんは、僕に抱かれる側の方がいいということだ。
「でも暦海くんってネコ専だよね」
「………そ、だね」
「タチなんて考えたことないでしょ」
「………………そ、」
「そういうことだよ」
ひゅっと自分の喉の奥から音がする。息をするのが急に苦しくなった。
「……柳楽さんも、ネコだったの?」
「いや。別にどっちでもいい派。でも暦海とならオレが抱かれたい」
どうしてそんなことを言うのだろうか。
柳楽さんは、妖しさを孕んだ色っぽい笑顔を浮かべ、僕の顔を覗き込む。
「ね。オレと昂くん、キミの相手になるにはどっちが困難だろうねぇ?」
二の句が告げない。
「昂クンはキミに恋愛や性愛を除いたただ一人のパートナーを望んでた。もしかしたら今でもそうかもしれないね。キミが昂クンの望む形で、本当の意味で彼を選べたなら、彼は星であることから救われるかもしれないよ? でも、暦海クンは彼とセックスがしたいよねぇ。抱かれたいんだもんね、あのイケメンにさぁ」
「柳楽さ、ん」
「オレへの気持ちを自覚してくれたところ残念だけどさ、オレとは今度は性の不一致と来た。困ったね、どちらとも上手くいかないみたいだ。男同士の恋愛ってままならないよねぇ。……ねぇ、今恋煩いに狂ってるとこかよ。オレは花織ちゃんが死ぬのを止めたいっつってんだろ。頭沸かしてんじゃねーっつうの。確かにオレはお前のことが好きだよ。知らなかっただろうけど」
「へ!?」
「好きだよ。性的な意味でね。そうでなきゃ尽くしませんって。めんどくせーもんな。でもさ、オレは今それどころじゃねーんだよ。暦海くんだって、昂くんのあんな悲痛な声聞いといてオレとうつつ抜かしてる場合? ちょっと一旦頭冷やしな」
「…………」
ぐるぐると感情の汚泥が渦巻き始める。一番はっきりしているのは自己嫌悪だ。
また僕は、自分のことばかりだったのか。
「恋で周りが見えなくなるところ、可愛いけどね。そういうとこが好きだけど、嫌いだよ。だってキミは、オレがお前に尽くすから好きになっただけじゃん。否定できる?」
「……できない、と思う」
「ねえ暦海クン、先輩だから少しヒント出してあげるよ。キミはコミュニケーションがヘッタクソだからね。状況を整理しよう」
「……うん、お願いします」
「お前はずっと、昂くんのそばには花織ちゃんが必要だと思ってきた。それが最適解だと思い込んできた。花織ちゃんが当時誰を好きだったのか知らないまま、自分は龍祈くんが好きなんだと嘘をついた」
「うん……」
「けれど蓋を開けてみれば、花織ちゃんと龍祈くんは当時両片思い。昂くんは確かに花織ちゃんに恋愛感情を抱いたが、それよりもずっとキミとの友情を欲していた。キミが一緒に生きてくれるというなら、恋愛なんて彼はどうでもよかった。花織ちゃんは彼にとって必要な人物ではなかった」
「………」
「おまけにオレはキミをずっと好きだった。キミは本当はよく愛されてるね」
「……そう、かな」
「そうなんだよ。認めろよ」
また怒っている。僕は観念することにした。
顔を上げれば、柳楽さんは悲しそうな顔をしていた。胸が、痛い。
「ここで重要な事実だ。お前が思っていたほど、花織ちゃんは愛されていなかった。必要とされていないのさ、今もね」
「……え」
「花織ちゃんが、キミが龍祈くんを好きだと誤解してからなんで身を引いたかわかる?」
「それは……花織が優しくていい子だから……」
「まあそれはあるかもしれないけど、今はそこじゃねんだよ。花織ちゃんもお前が好きだったからだよ。まだわかんないかな」
「………好き」
「そうだよ。あ、恋愛的な意味じゃないよ。今更注釈なんていらないだろうけどさ。あの子にとってキミは本当に大切な友達だったんだろう。そうでなければ自分の恋を諦めるかな? キミがこれだけ人生を振り回されている恋なんて心を、捨てられるかな。キミならどうだよ」
「………俺は、捨てられてないから、こんなに未練がましかった、です」
「だよな。そういうもんだよ普通。オレだってそうですよ。口を開けば幼馴染の話しかしない、いつまでも初恋を引きずってるお前にどれだけイラついてきたことか。でも花織ちゃんはそれができたんだよ。お前のことが大好きだったから」
柳楽さんは、笑みを消し強い視線で僕を射抜いた。
熱っぽくて、真剣で、心を刺されてしまうような視線だった。彼は今、僕のためにわざとこんなことを言っている。
「キミは愛され下手の愛されキャラだったんだな。わかるか? こんなにめんどくせー男なのにな」
「ひどいな……」
「そうだよな、お前はひどい男なんだよ。自覚して欲しい」
「俺は……花織のこと、多分好きじゃない」
「そうだろうね」
柳楽さんはなぜかふっと笑う。
「キミは花織ちゃんにずっと負い目を感じてきたんだ。彼女が女の子だから。昂くんに惚れられているから。とてもいい子だから。自分なんかよりもずっと愛されるべき素質を持った子だから……。な、自分で言ったこと覚えてる? 花織ちゃんを本当に愛してくれてる人間と一緒にやらないと、『さそりのひ』は成功しない」
「…………」
「宮沢賢治は一人でさそりのひになろうとした。それで失敗したんだ」
「たつ……は、花織への気持ちが、消えてる。ほとんど」
「うん」
「それどころじゃなくなったから。俺が、花織をたつから遠ざけてしまったから」
「うん。そうだよね」
「俺、俺も花織のこと、本当は好きじゃなかった。……ねえ、柳楽さん。こんなことってある? 花織、」
「やっとわかった? はは。青ざめてやんの。死人みたい」
「………………、…………」
「もう一つ重要なことがあるよ、暦海クン」
「……何?」
「花織ちゃんは、花織ちゃん自身が、自分のことどうでもいいって思ってる。だって彼女はいつでもさそりのひになれるからね。その覚悟を持って今まで生きてきたんでしょ?」
相対のスーパーノヴァ 星町憩 @orgelblue
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