第三章 アケルナルの憂鬱
十二
「お」
教室を出ようとしたところで、二〇一号室から出てきた
「……えっと、落ち着いたの?」
「
……と思ったのは早計だったようで、まだ昂の中で整理はついていなかったらしい。なんと他に声をかけようか迷っていると、
「それ、何読んでるんだい?」
「ああ……詩集。こん部屋に落ちとった」
「へえ……というか、この部屋はなんだったの?」
「見るか?」
僕の言葉に、昂は今閉めたばかりのドアを開けた。そこは狭い畳の間で、古い木造の二段ベッドと小さなちゃぶ台だけが置かれている。ちゃぶ台の上には湯のみがふたつ。そして、畳の上には古びた原稿用紙が積み重なって置いてあった。
「湯呑みには、宮沢賢治と保坂嘉内の名前が彫ってあるけん、多分その人たちの部屋っぽいまやかしやろ。んで、その紙は宮沢賢治の原稿っぽい」
「え、なんの……」
「多分、銀河鉄道の夜。こん廊下の壁にも書いとるやろ」
「保坂嘉内って、さっきオレ達が見つけた名札の人だねえ」
柳楽さんの言葉に、昂も頷く。僕は、そこで慌てて、
僕は、
「へえ」
昂は、あまり興味がなさそうだった。どうしたんだろう。そういえば花織は?と尋ねれば、
「さっきすれ違ったけど。まっすぐ体育館に向かっとった。たつば探しよったんじゃなかと」
とどうでもいいことのように言い捨て、詩集のページをめくるだけ。
「……なんか、拗ねてんの? 昂」
「なんで?」
「いや……花織のこと、気にならないの」
「…………」
昂はようやく詩集から目を離し、僕を見た。その目は光がない。奇妙に空気が変わったのを感じた。肌が粟立っていく。
「……ぶっちゃけると、結構もうどうでもいい」
ゆっくりと、昂はそう言った。
「どうでもいい!?」
僕はさすがに驚いた。さっきのやり取りで、何をそこまでやさぐれたんだろうかと心配になる。柳楽さんは、僕らの様子を時々伺いつつも、ベッドをまさぐって何かしている。
「ちょっ、ええ? どうしたんだよ昂。らしくなくない? もしかして実は結構花織のことで思い詰めてたりした?」
「声がうるさか……じゃなくて、ああもう、方言すらめんどくせぇな」
昂は畳の上に寝そべった。
「ていうか、もうほんと、最初からどうでもよかったっさ。いつまで経っても星に戻れんし、死ぬ訳にもいかんし、仕方ないから人間としての生をどうにか全うしようと思ってただけだし」
「……だから、花織のこと好きになったって言うの? いやいやそんなことないでしょ、俺から見ても昂は花織にベタ惚れだったじゃん」
「そりゃ、周りのほかの女子より花織が一番可愛かったし?」
「そんな身も蓋もない言い方……」
「ブスなんか俺にふさわしくなか」
昂のその声が、僕の心臓を刺して氷漬けにした。
「ふさわしくない……え、何。ちょっと待って。ふさわしいとかふさわしくないとかって何」
逡巡後、僕の心に湧き上がったのが、怒りなのか、憤りなのか、苛立ちなのか、焦りなのか、失望なのか……よくわからない。昂は僕をちら、と見ると、にたあとさらにらしくない笑みを浮かべた 。
「俺はアケルナルですよ。そこらの愚民共とは格が違うわけ。仕方なく人間風情の体で生きてやって、いい子供の振りだってしてきてやったさ。下々の者には優しくしなきゃいけないからな。言っとくけど、天皇よりイギリス女王より俺はずっと高貴な存在なんだよ。それをこんな片田舎の冴えない息子として演技してやってんの」
「あー、それ知ってる。ノブレス・オブリージュってやつだねー」
柳楽さんが茶々を入れてくるが、昂はそれが気に入った様子でそうそうと肯定さえした。
「待ってよ昂。俺の知ってる昂はそんな事言わない」
「そりゃ知らないだろうね。教えてやる義理もなかったから、今まで優しくてかっこいい幼馴染として振舞ってやってたから。花織も似たようなこと思ってるんじゃねえの。俺の本性知らないから。ほんと馬鹿らしい。くだらない。アケルナルだよ、アケルナル。そんな俺がお前らにほんとに友情感じてるとでも思ってたの?」
「化けの皮の剥がし方雑くないですか〜昂クン」
柳楽さんが、ベッドから何かノートのようなものを持ち出して側に来た。なにそれ、と視線で尋ねたが、「今はこっちでしょ」とはぐらかされる。
「昂クンさあ、君もほんとはわかってるんじゃないの? ていうか話も聞いたでしょう。君は君自身が高貴なアケルナルではなく、君が内心ずっと見下してきた矮小でくだらない人間でしかないらしいってこと。それで急にやけになってない? あるいは、そんな矮小な人間である花織さんに振り回される自分が惨めとか?」
柳楽さんの挑発めいた言葉を受けても、昂は笑みを崩さなかった。それどころか面白そうに笑った。
「あのな、柳楽さん。人間の脳みそである以上ね、俺達は自分の尺度でしかものを判断できないんですよ。花織の尺度では、俺はただの人間なんだろう。でも俺の尺度では俺は星ですからね。死んでみないことには真実なんてわからないわけ。というか、分をわきまえろ、名もない四十番星風情が」
「………っ」
その一瞬で昂からぶわりと発せられた威圧感は、僕を息苦しくさせ、いつも飄々としている柳楽さんの顔さえ歪ませた。
「俺を自分の仲間だとでも感じてたんですかね、柳楽さん。それ面白いけど、さすがに下賎が過ぎると思いますよ。あんたは俺と張り合える立場にない。わかる?」
昂が立ち上がると、威圧感はより膨らんだように感じられた。昂は僕らを高いところから見下ろして、笑っている。
「俺はこれでも、人間である矢留昂を大事にして生きてきたんですよね。俺の大事な分身と思って。人らしい友情も恋愛も家族愛も大事にしてきたつもりですよ。でもね、俺もさすがにこの場所だと理性がそうそう効かなくなるんだ。お前もわかるんじゃない、柳楽日向さん。俺より格下だけど、同じ発作を必死で抑えてる。だからすぐそうやって人をおちょくって、自分の中の攻撃性を外に発散させようとしてるんだよね。でも相手を間違っちゃだめだと思いますよ。馬鹿なやつは可愛くはあるけど」
「……っ、昂!」
「いや、いい、暦海くん……図星だし……ちょっと、黙っといた方が、いいと、思う」
俯いたまま、蒼白な顔で、柳楽さんが僕を制した。柳楽さんが何かに怯える姿を僕は今初めて見ている。昂の豹変が怖いのは僕も同じだけれど、柳楽さんにはもっと感じられるものがあるんだろうか。
でも僕が昂を止めようとしたのは、気づいたからで。昂の物言いをたしなめようとしたわけじゃなかった。このまま放っておいてはいけないと、昂を好きな僕が内側で精一杯叫んでいたのだ。だから……
「興が削がれる〜ってこういうことだな。はー、めんどくせ」
昂は、詩集を放り、さっさとその場から出ていこうとした。ノブにかけられた手を僕は咄嗟に掴む。
昂は、獰猛な獣の目で僕をギラギラと睨みつけた。
「触んな」
「………っ、いやだ。話をちゃんとしよう。落ち着いて」
気圧されかけても、その言葉を振り絞る。
けれど、昂はまた身体中に激しい怒りを纏って、口元を歪めた。
「何? 俺のことを理解したいの、ハル。そうだよな、お前俺のこと大好きだもんな」
予想もしなかったその言葉に、僕は凍りついた。手を払いのけられる。
「知らないとでも思ってた? お前わかりやすいよ。でもね、俺がお前に応えてやるわけがないじゃん。ふさわしくねえにも程があるよな。だから無視して花織を構っていたのに、それでも俺に向かってくるその度胸は評価してやってもいいとけどさ、今は一人にしてくれんかね? お前が思ってるように、俺はそう、今イラついてるんだよ」
昂は、最後には優しい声音でそう言うと、部屋を出ていった。足音が、遠ざかる。
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