十一

 ああ、そういえば、と。

 暫し三人の間に流れた気まずい沈黙を破ったのは、柳楽なぎらさんだった。僕はほっと息をつく。

「さっき、教室を掃除しろって放送したの、暦海クンだよね。あれはどういう意図だったわけ?」

「ああ、あれは……」

 それは龍祈たつきに言われたように放送しただけで、その意図することは知らないということを説明する。柳楽さんと花織かおりは、僕が来る前、この教室の床にはたくさんの星屑が散らばっていて眩かったのだと話した。それはお互いの顔がよく見えないほどに。そこを手探りで、ロッカーらしきものを見つけ、掃除道具を取り出し、掃除機で粗方の星屑を吸い取り、その一部を空のランプに入れて明かりにしたそうだ。コンセントはあったんだろうかとか、なんで掃除道具がそもそもあったんだろうとか、素朴な疑問は浮かんだけれど、そもそもこれは非現実的な現実なのだ。シュレディンガーの猫は、蓋を開けるまで猫が死んでいるか生きているかなんてわからない。夢が往々にして目覚めてみないことにはそれが夢だったのか現実リアルなのか知覚できないのと一緒で、この経験もまた、何かしらに決着がつかないことには真実もからくりもわからないのかもしれない。

 そして、星屑が取り除かれ、室内が薄暗くなったことで、初めてみんなは、黒板に文字が書かれていることに気づいたという。

 白いチョークで平面いっぱいに書かれていたその言葉は、『僕だって、君のことを愛していた。』

 誰から誰への言葉なんだろうか。とても美しい文字だった。けれど筆致はどこか荒々しくもあった。書いた者の激情がぶつけられたかのような。これはどんな思いで吐き出された言葉なのだろう。

 他にも、花織は教卓から鍵束が出てきたことと、床に【保阪嘉内】の名札が落ちていたことを補足した。僕もまた、他の部屋に鍵がかかっていたことを共有する。名札には、【非政府組織天文学連合】と書かれている。保阪が日本で初めての機関員だということや、龍祈がその組織に所属していることなど、諸々の情報を伝えれば、柳楽さんはどこか嘲笑うような笑みを浮かべて「へえ」と零した。花織は難しいことはよくわからない、と言った上で、

「そか……たつは、そんなに苦しかったんだ」

と、ぽつり呟く。

「龍祈クンがこの場所に来てまで知りたかったことって、結局何かな。いまいち話の内容が掴めなかったよ」

「それは……」

 柳楽さんの言葉に、僕は少し考え込む。

「多分、死にたいと願うほど、苛まれるほど、苦しまなければならなかった意味……じゃないのかな」

「……うん? よくわからない。そんなの、【SCStar Child】で、単純に使命がなかったからだけでしょう。まあ、俺も思い詰めるほどではなくても、星の姿に戻りたいという願望はあったしねえ」

「……柳楽さんはなんで、龍祈のように死にたくなったり自殺を考えたりまではいかなかったんです?」

「ええ……それがデフォルトみたいに言わないでよ。だってオレは、彼女を無駄死にさせないために、彼女が超新星爆発を起こそうなんて馬鹿なことをしないように止めるために、生まれたんだよ? そっちのが先でしょ。そうでもなきゃ、人に生まれた意味もないしね。星に戻るのはその後でもいいじゃないか。人の命なんて星に比べたら短い短い。何も焦ることは無いんだよ」

「つまり、柳楽さんには、花織をこの世界から探し出して、止めるという使命感があったわけ、だよね」

 僕がそう指摘すると、柳楽さんは虚をつかれたような顔をして、気が抜けたような声で「まあ、そうね」と答えた。

「龍祈には、多分それがなかったんだ。人として生まれてきた……より正しく言うなら、星に選ばれた意味も使命もわからないまま、星に対する過度な憧れだけを抱いていたんでしょう。今ならわかるよ。龍祈は、ずっと周りの人間を小馬鹿にしてたんだ。自分はもっと偉大で崇高な太陽と同列の存在なのに、そんな太陽の下でしか生きられない人間なんかの姿でなぜ居続けなければいけないのかって……それで、機関に入ったはいいものの、調べてみても自分の星は白色矮星――超新星爆発を控えた死にかけの星ではなかった。使命があるわけでもない。じゃあ、なんのために生まれたのか? 機関に所属してなお、理屈的に自分がここにいる意味がわからなかったんだ。だからまた僕達に接触したんですよ。これは、龍祈からのSOSだ」

「なあるほど」

 柳楽さんが納得した隣で、花織は僕をじっと見つめていた。視線を交わせば、花織は顔をくしゃりと歪めて笑った。

「………こよみは、やっぱり龍のことはよくわかるんだねえ」

 その声に、憧憬と、羨望と、嫉妬のような感情が僅かながら溶け込んでいる。僕の脳は一瞬フリーズしかけた。

 そうだ、誤解を解かなければならない。花織は僕が龍祈を好きだと思い込んだままなのだから。

「あの、花織。俺、ちゃんと君に説明しなきゃいけないことがある。謝らなきゃいけないことでも、ある」

 柳楽さんは空気を読んで黙っている。花織の微笑は、まだ固い。

「あの……あのね、俺は、たつが好きなんじゃない。好きだった、わけでもない。友達としてはもちろん、思ってる。でも、そういう意味で、あいつを見た事はないんだ」

「え……?」

 花織は、眉根を寄せた。僕は、口の中が渇き、肩から腕が震えるのを感じながらも、それだけは言わなきゃいけないと、どうにか声をひり出した。

「俺は、俺がずっと好きだったのは、」

「――待って」

 胸を、トン、と押された。花織の細い指で、押された。

 花織は俯いている。長い髪に隠れて、その表情はよく見えない。ただ、その細い喉から絞り出された声が震えていることしかわからない。

「…………聞きたくない」

 初めて聞いた花織の声音に、僕は凍りついた。花織はそのまま、教室を駆け抜け、ドアを閉めて向こう側へ行ってしまった。

「あーあ。男女の痴情のもつれっていやだねえー。しかも君がゲイだからややこしいってね」

 柳楽さんは僕がよく知る軽い調子でそんなことを言った。体がよろけて、思わず近くの椅子の背を掴み、踏み止まった。心臓が嫌な音を立てている。おかしい。おかしい。僕はわかっていたはずだ。花織がだんだん昂に絆されてきてるって。なのにどうしてこんなに、焦っている? 叶うはずもない恋心なんだぞ。どうして、こんな激しい感情が湧いてきた? いったいどこから? どこにこんな、僕の中のどこに、こんな激情が隠れていたと――

「はは、今の暦海クン、野良犬みたい。息遣い、ウケる」

 柳楽さんは、面白いものを見るように、目を細めて僕を見た。今初めて、ここに来てからまともに目が合ったと思う。柳楽さんは再び僕に興味を抱いている。それがわかって、瞳から別の煮えたぎるような感情が注ぎ込まれたような錯覚に陥った。タチの悪い野次馬だ。彼は。

「諦めたとか言ってた割に、諦めきれてないじゃん。はは、やっぱりキミは根っからの嘘つきなんだよね。悲劇のヒロインぶってるっていうか。男のくせに」

「うるさい。あんたに関係ないだろ」

「いやいや、関係ありますよ? 男同士の恋愛なんてこれっぽっちも興味ないんだけどさあ、見せつけられてるから仕方ないじゃん? 俺は、別に興味なくても勧められた小説はちゃんと最後まで読む主義なんだよね」

「勧めてない!」

「もー、めんどうだよ、暦海クンはさ」

 耳をいじりながら、呆れたような大袈裟なジェスチャーを交えて柳楽さんは苦笑した。

「当たって砕けてきたら? もーほんと、見ててキモイ。あ、別に男を好きなことをキモイなんて言ってないよ? そうじゃなくてね、キミの……なんていうの? そのうじうじ腐ってるところがほんと見てて不快。周りの人まで巻き込むんだよね、キミの陰鬱。だから友達も少ないって気づかない? オレくらいだよ、キミに今でも付き合ってあげてるやつ。まあ、可哀想だし? でもさあ、いい加減うっとおしい」

 柳楽さんは、ポケットからタバコを取り出そうとして、それがないことに気づき、手持ち無沙汰そうに手を揺らした。

「幼馴染、男女二人ずつでもさあ、上手いこと二対二のカップルに分かれないことの方が多いわけよ。人間の感情ってそう単純じゃないでしょ。誰かが好きなやつのことは、別の誰かが見てもよく思えたりするしねえ。で、君達はそれが男女ごちゃまぜなわけさ。どろっどろになるに決まってんだろ。それをまだ二十歳そこらのぺーぺーが耐えるだの偲ぶだのキモイことしてんなってえ。壊したくない関係性の中に恋愛感情持ち込んじゃった時点でー、キミら終わってんの。わかる? 続けたいなら外に関係作るべきでしょ。違う? それしなかったら、後はもう遺恨を残さないくらいぶつかり合うしかないんじゃないのぉ」

「……死にたい」

 心の底から、出た言葉だった。

 今ここに、僕だけが必要ない。星の子でもないし、この物語は花織のものであるべきだ。僕がいるからおかしなことになる。僕が僕を含んだ、破滅しつつある関係性を観測してしまう。

「まーた出た。懲りないねえ。でもオレは優しいから、じゃあ死ねばなんて言ってあげないよ。この場から消えたかろうが、もうここに来てしまってんだから仕方ないでしょ。せいぜい、花織ちゃんが死なないように協力でもしてよ。オレ、チャラチャラして見えてんだろうけどねえ、」

 柳楽さんは僕の顔を覗きこんだ。

「もし花織ちゃんが死んだら、オレは即自殺できるよ」

 その柔和な笑みが、ぞっとするほど冷たい。

 二の句を告げられないでいると、柳楽さんは顔を離して、何故だか僕を慈しんだり愛おしむような目で舐った。

「てっきり、暦海クンがそうだと思ってたから、オレはキミが死ぬ死ぬ言うのが耐えられなかったわけですよ。おわかり? だから側にいて見張ってたし、心のケアもしてあげてたでしょ。結果的にキミはハズレだったわけだけどさあ、一応情はあるんだよね、これでも。人間の柳楽日向はキミのこと嫌いじゃないわけですよ。だからさ、いい加減にして欲しいんだなあ」

 そこまで言って、柳楽さんはふっと表情を消した。

「今度死にたいって言ったら、殺すよ」

 その声に、激情がまとわりついていたように聞こえたのは気のせいだろうか。

 気がつけばまた柳楽さんはいつもの軽やかさを身にまとって、「追いかけようよー」なんて間延びした声で言いながら、廊下に続くドアをカラカラと開けていた。


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