第13話
「たくさんの人がここで降りていくわ」
「はっ?」
「ねていたんでしょ。でもあなたのいなばのしろうさぎ、おもしろかったわ」
「ゆめのなかがわかるの?」
「いまはその、はくとかいがんにきたわ」
「ええっ?じゃあおりなくちゃ」
「だってまだねむいんでしょ。もうちょっとねむられたほうが、からだがやすまっていいとおもうわ」
「そう」 ・・・
アメノウズメさんがまだ横にいる。やっぱり夢を見ているのではないんだ。多幸感が眠気の恍惚といっしょにねじりあいながら、細胞の彼方の隅々にまで行き渡っていく。うれしい。目をつぶって噛みしめる。ガタン、とバスが発車していく。まるで快速電車のようにギアをシフトアップしてスムーズに加速してしていく。加速しながら眠気の底へと落ちていくのがわかる。白兎海岸、なつかしい・・・もやもやと霞んでるのは記憶めいたもの。深い眠りの淵でせめぎあっているような・・出雲への長いバスの旅。
そう、大社の心御柱が地底から発見された年だった。山陰道は雪の中。行けども行けども、雪雲の深く垂れ込んだ灰色の世界だった。やっと降り立った国道には雪交じりの北風が強く吹き付けていた。ワニに皮を剥がされて痛いよと泣いていたうさぎのところをオオクニヌシが通りかかった。真水で洗い、ガマの花粉を地面に敷き散らして寝ころべば綺麗に治るよ、とオオクニヌシは言った。 だから「ガマの茎はどこにあるんだ、見えねえぞ」と聞こえよがしに俺は御身洗池の淵で言ってみたのだった。小さな古池には氷が張っていた。親と子。離れ離れになるよりも前だった。二番目の子供が小さな手のひらで丸めた雪を氷の表面に投げた。雪のかたまりは、音もたてずに向こう岸近くまで滑っていって、四方八方に飛び散った。
その白兎神社の石段をおりきったところで、「アイスクリームが食べたい」と子供たち3人ともが口をそろえて言ってきた。見れば向こうの路肩のところに、国道とへばりつくようにしてアイスクリームの自販機が1台立っているではないか。「ようもあんなのものを見つけられたなあ」と半ば感心しながら、子供たちを連れて歩いた。財布からお金を出すと、一番上のお姉ちゃんに渡した。そしたらまず下の二人の弟の分を聞いてから買って差し出し、最後に自分の選んだアイスクリームのボタンを押した。まだ保育園なのに、けっこうしっかりしてる。国道をトラックがゴーゴーと唸りをあげて吹雪の中を突き進んでは消えていった。白兎海岸。生まれて初めて見た山陰の日本海。けたたましくうねり返る白波。こんなにも荒れ狂っていたとは想像だにしてなかった。何一つとして見渡せない、厳しい極寒の灰色だけのうす明かり。もうすぐ根の国。「寒いのになあ。おいしいかい?」とたずねると「パパも食べてみたら」と答えが返ってきた・・・「寒いからいらないや」「どんな味がするの」「クールミントだよ」「ほう、クール・・・・」・・・・・・・
・・・「クール」・・・・・「クール」という言葉を、保育園の年中さんだった俺はもういっぺん口の中で声に出してたしかめる。ちゃんと言えてる。走りながらも思い出したように、時々こうやって「クール」とつぶやいてみる。走れば走るほど、涙が目の向こう側の景色をにじませる。でもクールという覚えたばかりのハイカラな言葉が気をまぎらわす。
豆腐屋さんの看板が見えた。あのお店は、クールのチューイングガムを売ってるのだろうか。クールなんていう言葉・・こうやってひとつずつ、まだ小さい自分は、新しい言葉を覚えていくんだろう・・先ほどのおとうちゃんの怒った顔がまた出てきた・・・ここの豆腐屋を過ぎて、四つ角を曲がって・・・保育園にたどりつくまではもうすこしだ。早くしないと、ぼくは保育園をやめさせられてしまう。
だから家から保育園まで遠かったけど、ずっと走るんだ・・・お帰りの送りでいっしょだったかみやせんせいが、ちょっと待ってと言って、つないでた手を振り払った。ぼくが片方の手に持っていた、誰かからもらったか奪い取ったかの白い小さな紙束の1枚を、ちょうだいと言って、せんせいは道端でしゃがんみこんだ。黒いインキペンのキャップを取って、長いスカートの膝の上ですらすらと字をかいていく。何を書いているのだろうか。きれいな字だった。ペン先で「ないたり・・」というインキの文字が小さな自分でもわかった。「ないたり、って書いてあるよ。ねえ、ぼくのこと?ぼくのこと?」とおどけながらはやしたてる。せんせいは、なにやら長い文を書き終わると、また手をつないでぼくの家までてくてく歩いて送っていく。
父親が家にいた。多分、夜勤だったのだろう。挨拶して帰ろうとするせんせいの紙をぼくはとっさに奪い取ると、「おとうちゃん、これ、おとうちゃん、これ」と走り寄ってその紙を見せる。あわててかみやせんせいはその紙を取り上げると保育園へ戻っていった。しばらくしてからおとうちゃんが言った。「かみやせんせいは、おまえを保育園からやめさせてほしいと、園長せんせいにたのみにいくと書いてあったぞ。保育園をやめさせられないよう、今から行ってたのんでこい!」
だれもいない黄組に、かみやせんせいはひとりでいた。「せんせい、ぼくを保育園からやめさせようとしとるだら」黙っていた。「ぼくをやめさせないでよ」泣いてたと思う。せんせいはぼくを連れて、給食のおばさんのいる炉端につれていくと事情をおばさんに伝えていた。せんせいが言った。「わかった。この手紙はいまからここで燃やすからね」インキの綴られた白い紙が灰だけの大きなかまどの中に放り込まれた。ぼっと火が出て、瞬く間に燃えていった。「ほら。証拠として給食のおばさんも、ちゃんと見ていたからね。これでいいでしょ」
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