第9話

頭上の白い沙羅の襞が幾重にもオペラカーテンのように切れ上がっていく。半透明な沙羅なんだけど、どこか怪しげな萌黄色のオーラを感じる。思わず手を伸ばしてしまった。

「やめてください」

「はいっ?」

 手をとめる。残念ながらさわることはできなかった。

「わたしには、さわらないでください」

「どうして?」

「だって、あなたはサルタヒコなのですから」

「なんだって?この俺が?」

「そう、サルタヒコさん、はじめまして」

「・・わからんこと言うなあ。まあいいや。だけど聞くけど、どうしてサルタヒコだと、さわることができないのかな」

「だってしょうがないじゃない、わたしたち、しんわのせかいなのだから」

・・そうだったのか。言われてみればそういう理屈も成り立つのかもしれない。

天蓋にたなびく緞帳のような無数の襞の萌黄が、かすかに色を濃くした。それが深い靄が出ては見え隠れしている。スカートの中の広大な宇宙?いやこれは遠い記憶のどこかで見た、ちっぽけなランプの色ではなかったか。湯の色がゆらりゆらりと緋色にゆれている。俺は何かを思い出したように腰をかがめ、肩まで湯船につかったのだった。そして顔を仰ぎ、天井からぶらさがるランプを再び見上げたはず。あれはたしかに、湯けむりの向こう側だった。

暗闇の見えない幽谷・・・。冷気の黒いかたまりが吹きおりてきて、さらけ出した肌をとめどもなく刺してくる。どこかできいたことのある号水の声・・・・。

「今日はお客さんが少ないから静かです。でも週末は団体客さんたちで賑やかなんですよ」

暗がりの中で女将さんの、愛想のよい声が聞こえてくる。

「あれっ!これって!」

「そうです、赤鬼のお面です。サルタヒコとかいう、昔の神様なんらしいけどね」

 夜更けの旅館の廊下。その壁にひとつだけ、異様な存在感で固視し続けるサルタヒコのお面。黒い影を刻んだままじっと真正面を向いている。何年もかけて探し回ったのに、こんなふうに安易に出会うだなんて皮肉なもんだと思えた。まるで俺がこれまで歩んできた苦労をあざ笑っているよう。

深い谷川は漆黒。その川沿いのとてつもなく長くて遠い回廊をあるいていく。女将さんに言われた通り、ひとりてくてくと。男湯と女湯に分かれた湯屋がみえた。内湯につかったあと、俺は木戸を開けた。冷気が体を刺す。戸外の露天風呂がもうもうと湯けむりを上げている。暗闇の谷底にせり出すようなかたちで、まわりを大きな岩で積み重ねられている。露天に張り出した檜皮葺の天井の軒にぶらさがったランプが、露天湯のそこだけをゆらゆら、煤けたように照らしていた。外からの風に混じって、不協和に影が揺れる。寒いはずなのに、なぜか仁王立ちしたままの自分が理解できなかった。体中の感覚がなくなりそうに寒く、痛い。

 「やっほーっ」

 若い女の声が遠くで聞える。耳をそばだてる。

「ねえ、きこえる?」

 この露天風呂の、竹で編んだ仕切り壁の向こう側の、すぐ近くからだ。

「おう、聞えるよ」

「おひとり?」

「おう、ひとりだよ。そっちは?」

「こっちもひとり」

「・・・」

「・・・」

「あなた、サルタヒコなんでしょ?」

「・・うん?」

「わたし、アメノウズメ。しってるでしょ?」

「知ってるよ」

 ・・・・それきり女の声が消えた。あめのうずめのみこと。この成り行き・・。場所こそ違うが、これはまるで古事記にある、天孫降臨の段での、あめのうずめのみことと、さるたひことの、出会いのようではないか。全身が身震いした。

もう一度、たしかめるように顔を仰いだ。天井からぶらさがるのは、スカートの中の、萌黄色した沙羅の襞だ!

「ねえ、ソファにすわって、わたしのはなしをきいて」

「わかった」

「あなた、にゅうどうにのぼるとき、サルタヒコをおがんだけど、すぐとなりのアメノウズメまであるいてきてくれた」

「そうだったけかな」

「そしてあなたは、てを、あわせてくれた」

「・・・だって、エロティックなとこ、あるからね」

「あなた、わたしのせいかくとか、しってるはずだよね」

「まあ、古事記読んだことあるからね。少しくらいは」

「わたしは、あなたがはじめてやまにのぼって、モリアオガエルのたまごをみながらぼんやりしてるのをみて、おうえんしようときめたの」

「だれを?」

「あなたを」

「応援?」

「そうよ」

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