第7話
何十年と走りながら、涙と鼻水がぐちゃぐちゃ。そんなのはわかってる。天井を見上げて、燦然と輝くLEDに向かって、ハンカチで顔を拭け。おや、見たことのないへんてこなかぼちゃ。やっぱりうしろから時空がねじれ、意味もなくいっせいに崩れだすとは、無念で残念なこと。前もこんなことあったよな。しょうがない、逃げるんだよ。そうだ、逃げてなんとか、出口を見つけるんだよ!ガラガラ、ゴロゴロ、行っても行ってもしかし、いつもと同じ顔で、同じ速さで、俺を追いたててくるよ。無限ループをひたすら走ってる。目的の高層ビルがまるで見えてこない。
なんでこうなんだろ?何かいけないことをした?ちょっとばかり塩でまぶした蛇の干物と、唐草模様に洒落こんだ手鏡と、それから低く吊らされたペルシア絨毯の奥で、異様に鼻が高くていかにもずるがしこそうな耳をした女の、高慢ちきなうす笑いを垣間見ただけじゃないか。確かに俺は、ごった返しひしめきあうバザールのど真ん中で時折、足をとめては何かしらに近づこうとしたさ。でもそれは裸足の指のあいだにはさまってる乾いた砂粒がキシキシ鳴ってどうにも耐えられなかったし、長い間無理矢理ひきつらせてきた自分の顔の筋肉が痛くてしょうがなかったからだ。俺は俺の内に道を探せないでいる。遠く知らない雑踏に足を踏み出して行くだけ、それのどこがわるいというんだい?
こうやって目をつぶると見えてくるよ。白いあごひげと赤茶けた頬。何のひょうしか、眉間のしわがぎゅっと寄るんだ。口角から唾がとび、せりが始まる。行き交う荷車の軋む音と巡礼者たちの祈り。がちょうを追っかける子供たちと、雑踏の上空にたちのぼる土煙。それらがひとつの声となってこだまするよ。
愛を宿らせ
愛を宿らせ
そして、俺はいつも気づく。狭く高い煉瓦造りの、ずっと続く壁沿いの、窓という窓がいっせいに開いていく。白くて大きな尻がにょっきりと、窓枠いっぱいにあちこちから突き出されてくる。ひとつの驚きと安心。なつかしくてあたたかい尻。ヤギの乳のようなほのかなにおいの漂う尻。
愛を宿らせ
愛を宿らせ
気がついたら涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。狭い路地裏を一気に駆け抜け、雑踏のどよめきが背後で遠のいていく。また始まった無限ループの果て。走る裸足の指のあいだの砂粒が、キシキシ鳴って悲しい。もう、何も見てはいけない。見てはいけなかったのだ。顔の筋肉をひきつらせ、つっぱって、つっぱって走っていく。あてどない決断の連続。素直に生きれない、おまえの宿命を充分思い知ったはず。それでもまだおまえは飽きずに。
「出口がほしい!」
俺は暗い闇の中で呟いてみせた。
すかさず、高層階エレベーターの最上階ボタンを押す。にわか仕立てのような薄っぺらの金属を張り合わせてペンキを塗っただけの昇降機は、途中でいったんスピードが落ちて停止する。いつもの嫌なルーチンがまたはじまるのか、と少し覚悟する。案の定、エレベーターの中は狭い箱になっていき、横軸が傾いた。これからゆっくりと回りだすのだ。回転軸そのものが、上下ともそれぞれ違う大きさの楕円を描いて昇っていく。鼻をつく溶液のような臭い。おう吐しないように、この時間を堪えるのだ。不協和な角度の回転軸を俺は細心の注意で、自分の基軸を保つことに専念する。恐怖もあるが、併せて頭痛をも感じさせるこの時間。しかし、洗濯機の脱水槽のような高速回転にぴったり合わさってさえいれば、そのうち無事、終わる。通り過ぎた向こうはなんてことないのはいつものことだが、こういう流れに入ったときは必ずここを通らなくてはならないようだ。
なんとかおう吐することもなく、最上階の扉から出た。気持ち悪い。酔ってしまったようだ。床の透明ガラスからまぶしくライトが照らしてくる。はるか下の喧騒が逆にボリュームを上げてきて目が眩む。ことさらに群青と紫の混じった光の粒が星団のように密集したと思ったら浮かんだまま静止した。まずい、頭の中で大きな巣をつくりかけようとしている。しばらく抵抗力を集中させて、なんとか霧消させてみせる。
突然のように、便意がおそってきた。吐き気をこらえていたせいかもしれなかった。オフィス通路の端に、トイレの表示があるのをみつけ便座に座った。頭痛がこぼれ落ちるような音が便器の底にたつ。黄疸だった時のような、嫌な臭いがしてきた。若かったころ、毎晩徹夜に近い仕事をやって肝臓をこじらせたことがあった時と同じ臭い。今から思えばあれはあのころの真面目しか見えなかったこの身の産物だったことがよくわかる。じゃあ今、このままあのころに自分を持って行ったとして、果たして違う行動をとることができたであろうか。
悲観的な考えを振り払うように気を取り直し、トイレからでた。キャバクラ店のなかは、大学生のお客さんでごった返していた。不思議なことに女子学生の客までいる。これじゃまるで合コンの二次会みたいな騒ぎではないか。
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