第6話

広場を背にすると、眺望する視界の向こう側が、にわかに崩れていく。ロープウェイ乗り場の歯車がキシキシと日常の規範を歪な形状に変えながら回っている。いくつかのゴンドラが順々とやってきては行く。そこで突っ立つ、なんの変哲もない男が2人。「やってられねえ」、といった面持ちでこっちを見てるのが遠くからでもわかる。「おう」と申しわけ程度に手をあげた。そう、昨日は遅晩だった。深夜に帰ってきて、今朝早く起きて2人の自宅まで「柿」の手土産を携え、車で迎えに行った。「柿」は彼ら、奥さんたちの機嫌を損ねないためのもの。全く乗り気でなかった2人に「山は、いいぞ」と、これまで会うたびごとに熱弁をふるってきた甲斐あって、ついに俺の休みに合わせて有給をとってもらったのだった。溜まってた黒色チューブの絵の具が白い画用紙の上ではぜてたのに気づく。耳鳴りの奥で悶えていた記憶のかたまりが頭の中へドボリと落とされてプカプカ浮いてる。売店で買ったのだろうか、50歳も半ばの2人はソフトクリームをペロペロと舐めてる。この暑さでは手のひらに滴り落ちたクリームがべとべとしていてるのだろう。チョコレート味か。そうだ、思い出したぞ。「あと何分で着くんだ?」というやつらの疲れ果てた言葉の応酬の果てにへそを曲げられては困ると思った。だから登山中に何度も休ませては、あれこれ下ネタジョークをとばし、おまけに一粒ずつアーモンドチョコレートを小箱からつまみ出しては彼らに手渡したりして気を使ったんだ。


スルスルッと、ゴンドラが何事もなかったかのように、頂上からすそ野に向けて滑り下りていく。

「あのサイコロ岩をほんとに登ったのかい?」

「はっ、あんなの、登れるわけないでしょ」

「あそこでおまえが先に行ってくれ、とうるさかったから仕方なくそうしたけど、おれたちはおまえのことを心配しとったんだぞ」

「・・・わるかった。ちょっと大回りして登ってみたかったんだよ」

「それにしても俺ら、よう登ったよな。おまえが言うサルタヒコとかいう神社の登山口から入道ヶ岳を登って、そこから尾根伝いに鎌ヶ岳のぼって、そこからまたさらに御在所だからな」

「ええっ?」

 ありえない。休憩なしでも一昼夜はかかるはず。こいつら、どこからどこまでがほんとなんだろうか。

見渡す限りの山容のパノラマ。緑に覆われた山襞が眼下から吸い寄せてくる。おびただしく剥きだした岩石の立像の数々が目を飽きさせない。ケーブルは下へと延々と続いている。長いロープウェイだ。ふと、ずっと遠方で微かに動くものがひとつ見えた。黄色のポケモンを縫いこんだ子供リュック。あいつだ。あいつがたったひとり、サイコロ岩を登ろうとしている。思わず指を差し、声をあげようとしてやめた。俺しか見えてないのかもしれない。そうだとしたら、俺にしてもこいつらにしても、お互い得することはないから。

横に並びながらひとりが窓の外を見たまま、聞えよがしにつぶやいた。

「あのなあ、逆上だ、逆上だ、といきまいて登山だかなんだかしらんがなあ。おまえはこれまでの自分の人生をのろって、それがくやしいから、ただがむしゃらにやけくそになっているだけなんだろ?」

「はあ?」

「いい年こいて、ひとりで勝手に炎上してよおぅ。おまえ見てると逆上というよりもその前に、ひとりで炎上しちまってる。無駄な独り相撲としか見えんがな」

「いや、それはない」

「ほら、強がりがまた出た。じゃあ、何か変わったか?何か進展したか?」

「それは俺にもよくわからん」

「だろ?そいでなあ、さっきもお前を待ってるときに話してたんだが、あんまり俺たちまで巻き込むのはやめてほしい」

「そんなつもりないし」

 おもむろにズボンのポケットの奥から、ポケットティッシュを出して見せた。

「なに?」

「キャバクラの宣伝がのってる」

「はあ?おまえ、まさか今日、そこへ行くわけじゃあねえだろな」

「行く。初めてだし、勇気ねえし、おまえらを誘うつもりだったけど、俺ひとりで行く」

 ため息のような声が聞こえた。呆れてものも言えないとでも思ってるのだろう。

「重症だな。おまえみたいなクソ真面目だと、しっかりお金を巻き上げられてポイだぞ」

「そうかい」

「ばっかなやつ。まあいい、人それぞれ自由だしな」

「おう、あたりまえだ」

「友達としていっておくけどな。たのむからみじめになるのだけはやめてくれ」

「なるわけがない」

 視界がぼやけていく。肘を窓枠に乗せ、もう片方の手をポケットに入れ、ティッシュをしまいこんだ。山と山のあいだに今年初めての入道雲が発生しているのが目に映った。


「じゃあな」

「あばよ」

名古屋駅の改札で彼らと別れ、もう一度ポケットティッシュの地図を確認する。もうとっぷり日が暮れている。階段を降り、地下のプロムナードを行く。新しい高層ビルに続く地下道。かなり距離があったように記憶してる。いつ歩いたんだっけ?まるで太陽の塔の裏側をらせん状に上って下りているような錯覚に前回は陥った。自分のシルエットが暗渠の長い先まで動いて連動している。せっかくきれいな女性に会いに行くんだから、もっと燃えろよ!若かったころの知らない俺が未来の知らない俺に言っているのが遠くの方でこだましてる。俺?誰が誰に向かって?だからおまえは誰なんだよ!これじゃあメビウスの帯のように、延々と尽きることがないじゃないか。徒労。いったいぜんたい、お笑い種もいいとこだ。

「えっ、なんだって?逆上?」

 だったら、出口を探せよ。そう、この延々と繰り返される異国のようなバザールの雑踏から、おまえの出口を探しだしてみせろよ!


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