第5話

と、賑やかなポップスが下から聴こえてきた。きわめて場違いの騒々しさだ。「あったぞ!」とひとりの少年らしき声が響き渡り、前方の尾根伝いの方へと声が遠くなっていった。しばらくして見てるとその尾根の茂みの先端から、少年たちの真っ白な姿が見え出した。買ったばかりの新品のようなTシャツ。みんな中学生なんだろうか、四人いる。そのうちのひとりがボルダリングでもするかのように、岩に吸い付いてみせた。頭上のずっと高いところに見えるサイコロを目指し、垂直に登っていく。仲間がそれを見守る。サイコロの下までよじ登ったところで、「ムリ!ムリ!」とその少年はわめきだした。どうやら、これ以上登ることも、また下りることもできずに、あがいているようだ。このままだと落ちてしまう。やばいな。

残酷にもその時、深い谷底の襞から、霧のような白く冷たい風がこちらに向かってどんどん吹きあげてきた。岩にへばいりついてる少年の髪が天をつくように逆さまに昇っている。気流の放った濃い霧に隠れた。声が消えた。下から見上げてたはずの少年たちの姿も、賑やかなポップスの音も霧に消えた。気流のかたまりが途方もなく固い層をつくって、視界を真っ白に塗り替える。その真っ白の、幾筋もの聞こえない波動が合わさる。凄い速さでこちらにぶつかってくる。軋む車輪。そう、いくつもの車輪がぶつかってくる。


 堅い車輪のようなものが徐々に頭のてっぺんから抜けていく。あわせるように霧のかたまりがすこしずつ拡散していった。足元がゆっくり、そしてはっきりと見えた。まるで栓を抜いたお湯のように、木々の隙間の霧が見る見る薄らいで、どこかへ消えていくのだ。何かが猛烈な勢いでぶつかってきたのはたしかだった。ゆっくり歩きだした。まだ登山途上だったはず。一本一本の奇怪な樹木の造形を観察しながら頂上を目指す。耳鳴りの奥で、先ほどの少年たちの声がまだ聞こえていた。あの少年は助かったのだろうか。風が梢を揺らして何かを言っている。ずっと昔の、まだ自分の子供たちが小さかった時のはしゃぎ声。それらが、木々のあいだのあちらこちらを行ったり来たりして、楽しそうに遊んでいる。俺もいっしょに遊んだではなかったか。哀しくも楽しい思い出。そうか、じゃんけんだ。一度は負けた。だからこの次も、その次も俺は負けてあげたんだ。


 鎌ヶ岳の鋭鋒が南方に見えた。地図とコンパスによると、どうやら今立ってるこの場所が御在所岳の頂上のようだった。腕時計を見た。14時を少し過ぎていた。ふと、自分がきょうの1日の間に、いくつもの山を登ってきたような、。そんな記憶めいたものが湧いてきた。今日が初めての登山だった。なのになんで俺はあの山が、鎌ヶ岳であることを知ってるんだろうか。あの頂上に友人らを引き連れて登ったことがある、ずいぶんと昔。デジャブ?ポケットから携帯電話を取り出し、パスコードを入力した。画面が変わり、写真ホルダーを指先で触れてみる。写真が1枚も入ってなかった。何者かが全部消去してしまったのかもしれない。

三角点と思われるところから、対面する鎌ヶ岳の山容を何枚も撮った。あの鷹の爪のようにとがった荒ぶる危険な佇まいは何度見ても、魅了してやまないのだ。男性的で、まるで興奮した時の女性の乳房のような、ドーパミンの象徴。その時だった。携帯が振動した。呼び出し音が鳴っている。耳に当てる。「もおし、もしっ!・・」癖のある男の抑揚が聞こえた。少しの間をおいて、ああ、あいつだ、あいつだとわかる。なつかしいようで、つい昨日会ったばかりのような、曖昧な記憶が同時に頭の中でひしめき合う。「おう、なんだ、なんだ」とすかさず俺は応える。

  「なんだ、なんだじゃないわっ、このやろう!」

「は?」

 いったいどうなってるんだ?なぜ怒ってるんだ?いや、ここは怒らせてはいけない。気をおちつかせろ。怒らせて得だったことは、お互いなかったのだから。

「ちっとも電話に出ないし。で、いま、どこにおるだ!」

「御在所岳の三角点のところ」

「おまえ、今日の晩、用事があるじゃねえのか。自分で言っておいてなんだい!早く来いよ」

「来い、って、どこへ?」

「あほか!山頂ロープウェイの乗り場だわ」

「ロープウェイ?おお、そうか、わかった、わかった、いま行く」

  急ぎ足で、ロープウェイ乗り場の方向へ歩いた。緩やかな勾配で下っていく。山頂とはいっても、広い遊園地のようなものだから、夏休みがはじまったばかりの御在所は子ども連れの観光客でにぎわっているのだ。売店の「氷」のぶら下がったところでは、ひとかたまりの園児たちが騒がしく群がっていた。一人の保育士らしき若い女性が園児らを見守りつつも、磐座に後ろ向きに背伸びして突っ立っている。まるでどこかの神社の降臨石の上に、華奢なその身体を細い足指のつま先でささえてるようだ。彼女は鎌ヶ岳を見てる?いや、ちょっと違う気がする。入道ヶ岳の方だ。栗色の長い髪が紫外線で痛々しい。分解された匂いを鼻元でこすりつけてむさぼるように嗅いでみる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る