第4話

気の遠くなるような長い到着ベルが鳴り終わり、単線車両がホームの前でゆっくりとため息をつくようにしてとまった。緊張の糸がほぐれる。扉が一斉に開いた。目の前の開いた入口に向かって歩き出したところを、あの男が追うように付いてくるではないか。二人が間隔を空けて座る。しばらく車内アナウンスが流れたあと、車両がガタンと動く。同じように二人の体がガタンと揺れる。

「先ほどは失礼しました。ちょっと人違いをしてしまったようです」

「はあ」

「登山ですか?」

「まあ、そんなところです」

「もしさしつかえなかったら、いっしょに登りませんか」

「い、いやあ。あのう、友達を待たせてるんで」

「あ、そうでしたか。それはどうも失礼しました」

「ええ、いやいや」

 咄嗟につくった返答をしつつ、その男の顔を垣間見て、一瞬背筋が凍った。見たことのある顔。間違いなくどこかで。間近で観た、あの日、あの時の容貌。それがどこで誰なのか、、、すぐには思い出せそうにない。


うっそうと茂る藪の隙間の狭い登り口に足を踏み入れた。極度な勾配の岩肌ばかりが立ちはだかる。重力に逆らって、登山靴を一歩ずつ前に出す。そのたびに脆い花崗岩の砂粒で滑る。岩肌の勾配軸のところだけに時間が整合してくる。吸う息と吐く息だけが辛うじてそれに抵抗しているようだ。まつ毛に溜まった汗がしたたる。角膜がピリピリしてるのを知る。

 「大丈夫ですか?もう少しペースを落としましょうか?」

 上から男が下を振り向いて聞いてくる。

「いやあ、私におかまいなく、先に行ってくださいよ」

「座れそうなところに出たら、やすみましょうか」

「いや、私なんかにかまわないでください」

「・・・」

「あなたのペースで頂上まで行ってください!」

「わかりました」

 怒りを表した口調に、さすがに観念してくれたようだ。男はどんどん登っていった。オレンジ色の靴裏と、黄色のパッチが、濃い緑に埋もれて、完全に消えた。

 ずいぶん上にまで登ってきたのがわかる。木々の途切れた尾根から、眼下に広がる平野と海が眺望できた。男が言うには、今登ってるのは三重県の御在所岳という山らしい。景色が隠れた。またすぐに藪の中を登る。からだがいつの間にか喜んでいるのに気づく。同じような感じを今日の遠いどこかの時点で味わったのではなかったかと、自問してみる。しかし、何も見えない。駅で食べたメロンパンが口蓋にねっとりくっついてはがれなかった苛立ちと、冷たい牛乳が食道を落ちていく清冽さだけが思い出され、消えた。

泥色のカーテンをぱっと両手で押し広げたように、目の前が無防備に開ける。唐突だった。鮮やかに織りなす樹林の山並み。点在する奇岩。大きなひとつのサイコロの岩が絶妙なバランスで直方体の岩のてっぺんに乗っかっている。そのサイコロがくるくるとそこで回転し始めたかと思いきや、また止まった。なんという美しさなんだ。遠くを見た。近くを見て、今度はもっと遠くの方を見遣る。青い空のまん中で自分の足が乗っかっている。とらえどころなく映し出されたすべての事象が、瞳孔に凝縮しきれずに悶えている。今、巨大宇宙の内臓をえぐっている様を観てる。ここで位置する自分を虫ピンで刺して持ち帰るのだ。重力から解放された!

「よし、HIGHERをやろう」

駅で買っておいたペットボトルのお茶をラッパ飲みした。仰いだ目の先に、さっきの男が別の山の頂上からこちらをじっと見下ろしているのに気づく。まだ何か、詮索するような目つきでいる。いったい誰だ?しかし、たしかにどこかで会った顔。

首から上の顔がのぞいた。ぞっとした。ぱっと、まだらな茂みのある岩盤に消えた。えっ?まさかこんなところで赤鬼?どこか遠いお風呂場で見たような記憶がある。人間の話し声が下りてきた。突然、「わあ、は、は、」と年老いた女の下品に笑う大声が静寂を破った。凍り付いたようにその方角を凝視する。視界の淵から中年夫婦の姿が現れ出た。この山を下山するのだろう。品のいい婦人の姿からは、今耳にした笑い声が同じ人間の声だとは信じ難かった。私の姿を確認したかと思いきや、顔をほころばせて小走りに駆下りてくる。

「すみません、これで撮っていただけないでしょうか」

「いいですよ」

 デジカメを受け取ると、中年夫婦が肩を並べた。お互いのためらう手と手がつながる。背後には、弾道弾ミサイルのような巨大な花崗岩が二枚。丸裸で背中合わせにもたれあって、屹立している。

 「うしろの岩、入らないですが、いいですか」

「すごいでしょ、こんなに大っきな岩がよく倒れずに持ちこたえているものですわ。ずっと夫婦仲がいいんだわ。私が娘だったころ、これを見て感動しちゃいましたよ」

「大きすぎて入らないけど、うつしますよ」

「あああ、わかりました」

 さすがにその岩塊はほとんどフレームに入らなかった。子供さんたちは、家においてきたんだろうか。いや、もう中学生以上になってるのだろう。シャッターを押してカメラを返す。細い指。縫い物上手の細い指。軽快な会話を残して下山していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る