第3話
下り始めてから1時間以上は立ってる。
「ちゃんと下山できるの?これ、登山道じゃないよ」
「できるさ、できる。だって先ほど山の稜線に出た時、下の方に小さな鉄道の駅が見えてからね」
「そこまで下りて行くの?」
「とりあえずそうすることが懸命だと思う。駅に行けば食べ物にもありつけるだろうしね」
「樹林にぎっしり囲まれてて回りが何も見えないけど、間違いなく駅に向かって下りてるの?」
「こうやってね、コンパスの端っこにね、駅の方角に合せて矢印を石の先端で傷つけておいたからね。大丈夫だよ」
沢の音の隙間から、遠くからのきしむ車両の音が微かに聞こえた気がした。
「あと、どれくらい?」
「あと、・・ええと。・・10分、いや、あと5分だな」
「ほんとに?」
「あと5分、あと5分で、電車が発車しちゃうから。・・・急ぐから」
「・・だからさあ。その改札口に着くまでの間にまだ、じゃんけんができるから」
「はあ?ふざけんじゃないよ!」
「だって先輩は。いつどこでじゃんけんしても、負けるから面白い」
「バッキャロー、そんなことがあるわけねえじゃんか!」
急げ!かまってられるか。嘘の現実とは、こういうことなのか。素早く走って行けば、後方で嘘の現実は曖昧に輪郭をくずしていくはず。だから走るのだ。改札口を抜けた。頭上でせかす発車ベルが鳴りやむと同時に、背中のすぐ後ろで両扉がこの俺を包み込むようにやさしく閉じられた。助かった・・。
きっと平日の昼間なんだろう、電車の中の乗客がまばらだ。天井からは涼しい風が惜しげもなく滑り下りてきて、いくつかの吊り下げ広告をゆらしている。広告には「応援!」と激しい文字が、一刀両断したような勢いで周りを威嚇している。もうすぐオリンピック?いったいどこの?しかし消耗しきった頭がいちいち細かいことに詮索する気持ちにはなれなかった。汗をかいてる自分に気づく。そしてなによりもお腹がペコペコだったのを思い出した。よし、次の停車駅がやってきたら、菓子パンと牛乳パックを買おう。
ホームの売店でパンをかじり、パックの牛乳を飲む。ごっくんごっくん、すり減った体力の赤ゲージが音を立てて満たされていくのがはっきりと目に見えるようだ。エネルギーがみるみる補充されていく。冷たい牛乳と自分との相性がいいことを、小学校のはじめ頃に知った。
むき出しの線路が鈍色に光ってって、思わず目を細める。空を見上げ、ベンチにすわった。どこからか、蝉が1匹、鳴きだしてるような気がした。夏、だな。今年初めての蝉なのかもしれんな。きっと、にいにい蝉だ。小学校2年の絵日記帳の、夏休みの最初の日にクレヨンでにいにい蝉を描いた。「せみは、そげんいませんでした。」と鉛筆で綴ったのを母が読んで、笑った。「そげん」という言葉を、その時以降使うのをやめたな。会社での仕事にここのところ追い立てまくられて、季節があることを忘れていたような気がする。青い空。意味もなく涙が出そうになる。別に今、何が悲しいとか、つらいとか、そんな気持ちでもないのに。心の中の司令塔が少しだけ故障してるのかも。静かに蝉の声の中に自分の耳鳴りの音を探してみた。いや、耳鳴りの中に蝉を探してみた。ひょっとしたらという淡い期待を持って耳をすます。しかし聴き分けられなかった。長年悩ませ続けてきた耳鳴りの理不尽さ。一度たりとも、離れてくれたことがない。日々間断なく、内なるポテンシャルを蝕み続けてきた憎き事象。そんなやつらと俺は対峙しながら、気の遠くなるような長い年月を彷徨ってきた気がする。
汗を拭こうと、ズボンのポケットに手を差し込んでみた。ハンカチのかわりに、なぜかポケットティシュが1個出てきた。キャバ店の広告紙のついたやつ。いつだったかの出勤時に、地下鉄の出口のところで若い女性たちが配っていたものだ。「昼キャバ限定割引券1SET1980円」と印刷されている。ついでに、キャバ嬢三人の顔写真と、地図が載っている。キャバって、どんなところだろうか。金輪際行く機会もないだろうし。やっぱり耳鳴りが離れない。いつまでたっても煩わしい徒労感が体を包んでいくだけ。
眠くはなかったが、両手をあげて欠伸をしてみた。
「はいああっ」
えっ?HIGHER?ふと、CDジャケットに印刷されてた青山テルマの、若い物憂げなまつげが耳鳴りの奥でひくひく動いた。
「あれえっ?」
欠伸の両手をもう一度、今度は天井に向けて伸ばす。
「おかしいな?」
この青空のまん中に虫ピンで刺された私の後ろ姿が、脳裏に映って見える。透明なラミネートでぺったんこになった後ろ姿。ちょうどこんなふうにキャップを被って両腕を伸ばしてる。そう、たしかに俺は青山テルマの歌のフレーズを頂上でひとり叫ぼうと思っていた。だから知らないこの駅にいるのではないのか。目の前をひとりの男が通り過ぎていくように見える。俺は首を振った。頭の中の時系列というものをよくよく組み立てて、見通しをたてなくてはまずいぞ。自分が未来に向かってるのか、過去に向かってるのか、判別つかなくなってしまう。横軸をぶれることなくキープしていくことはたしかに難しいものだ。しかし生きていくうえでは、残念ながらそれを捨てることはできない。足にはきっちりと登山靴。そして背中にはリュックが載っかっている。そうだとも、登山のどこかに向かって歩こうとしているのは間違いない。
目の前をゆっくり、まるで自分の姿を誰かが見てでもいるように、時間が動いていく。ひとりの男が通り過ぎていくのだ。その後ろ姿がもうひとつの空いたベンチへ腰掛ける。がらがらのホームによく似た男ふたりだけがすわっている。中年の男。自分と同じくらい。50歳は、いってるだろう。登山帽をかぶり、なぜだか子供用のリュックを背負っている。おやっ?ポケモンの黄色いパッチが張り付いているぞ。ジッパーポケットの表に器用なステッチを施して、縫い付けられている。奥さんが縫い付けたものなんだろか。きれいなステッチ。きっと器用なんだ、この奥さん。と、ふいにこちらへ振り向いた。視線に気づいていたのだろうか。会釈をしてくる。目線が会う。思わず、こちらはそらす。 いったいこの男、なんなのだ?
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