第2話

・・・暑い。俺のこと、応援してくれる人なんかがこの世に、ほんとにいるんだろうか。

 長い妄想から目を覚ますようにハンドル横のレバーをシフトダウンさせながら高速道路をおりた。今まで聞き取れなかった流れる青山テルマの音声がやっと耳にはいってくる。

HIGHER!

HIGHER!

ちょうどサビのいいところだった。おうよ、まさにここからが「real story」、だよと、テルマの楽曲に俺の声を乗せ、歌詞を合せてみせる。そして斜め上から注視してるサルタヒコの方へちょっとだけ首を傾げて、ハンドルを握ったままの恰好で、様子を伺う振りをする。

彼が黙秘を押し通してるのは先刻承知だ。しかし今日は山頂で「ハイアー」と雄たけびを上げる自分の姿があと数時間後には見えるのだ。間違いなく、両手を空に突きあげている自分の後ろ姿が、梅雨明けの空のまん中を虫ピンで刺される。時系列の中の素敵な一コマがつくられる。

通門所の遮断機が、ピンッ!とびっくりしたかのように姿勢を正す。「きゅうひゃく、ななじゅうえん、です」とナビが通行料金を読み上げた。通行料金という名の妄想料金と、あとは感傷料金、といったところかなと、我ながら気の利いたセリフが頭に張り出された。

「これまでの人生、ずいぶんとネガティブ税を払ってきたんだからさ。ここいらで、きっちり逆上せんとな・・」

今日、これから始まらんとしてる行動そのものを、晴れ晴れしたリアルストーリーにしてやれば、それでいいのだ。

 

そう、ほんとにこの2年くらい、笑ってない、と思う。

そしてこの数週間は不眠続きで、いい加減、いったいいつまで続くのか、こんな精神状態に辟易していた。免疫力がどんどん弱まっちまう。梅雨があがり、うまいことにシフト休みだった。しかし眠たいのもあって、迷った。登山という、初体験の緊張と不安。鳳来寺山本堂までの石段1425段をまずは登り切った。順調な出だしだ。登り口という表札の狭いこう配を登っていくと、新しい神経伝達物質が体内で騒ぎだしてくるのを感じた。ドーパミンよ、来い。ドーパミンよ、来い。深い緑へと立ち入る度に、買ったばかりの登山靴がリズミカルに進んでいくのが不思議なくらいだった。


「この山、二千万年前は海の底だったらしいよ」

「へえー」

「そして702年に開山してからは、修験道の行者たちの集まる山だったらしいよ」

「ふうん」

登山客は誰もいなかった。岩間を滑る清水の音以外は、上からの鶯と下からのカエルの声しか聞こえてこない。沢のたまり場を通りかかろうとして、アイスクリームの溶けたような奇妙なものに出くわし、足をとめた。幹にべっとり張り付いて気色悪かった。トマトの種のようなものがいくつもクリームに混じっている。あああ、ひょっとしてこれはモリアオガエルの卵ではないだろうか、と声をf出してみた。池に張り出した木の枝などに産みつけて、そこでかえったおたまじゃくしが池の中へボトン、ボトンと落ちていく。たしか小学校の先生が黒板にチョークをキシキシとこすりながら、言ってたのを覚えてる。破裂したアイスクリームの泡からオタマジャクシの黒いつるんつるんの頭がにょっきりと出てきて、水面に真っ逆さまに落ちていくのだ。何万年も前から繰り返されてきた、生の営み。死んでも這い上がる蘇生の世界。


・・もし登山するようなことがあったら、ちゃんと私に知らせてくださいね。

あの子とふたりして、こんな神秘な生物の誕生の瞬間を、息を呑んで、いっしょに見る時がくるとうれしい。でも職場が違うから、コンタクトの取りようがないよな。また、誰か飲み会をつくってくれるといいのだがな。でも歳が違い過ぎる。隣に座る機会があるだろか。モリアオガエルの卵の話、きっと興味持って聞いてくれそう。あの子、登山に誘いたい・・・。


気が付くと、腹が減っていた。考えてみれば朝、ほとんど何も口に入れずに来たのだ。そしてどうもさっきから背中のリュックが妙に軽いものだなあと思っていたのだが、食料を全く入れてないことに今さらながらに気づいた。なんたる失態!腹が減った。しかし仕方ない。ここまできたんだからあとは頂上を目指すのみだ。

眼前の大きな岩塊を巻くと頂上に出ます、と親切な表札が立っていた。よし、もうそこだ。携帯が鳴った。職場の上司からだった。ある事態が発生したため、明日はいつもより早く出勤するようにとの些末な内容であった。

 気を取り直して最後の急こう配の岩場を、四つん這いでよじ登る。

「おお!」

見渡す限りの絶景だし・・。突端に立って、ぐるりと見渡す。方角的に、あの山々が南アルプスなんだろうな。ここまで来てよかった。

数歩先が切り立った深い谷だ。こわい。でも誰もいない。ゆっくりと両手を空に伸ばして。よしっ!


「ハイアー、ー!」


 思ってたより、声が小さかった。それにしても腹が減って仕方がない。さあ、下りだ。からだだけは、すいすいと下りていく。山のでこぼこにからだが馴染んでいくよう。なんか、楽しい。こんなんだったらもっとやってみたい。

 登ってきた道とは違うルートにはまってしまったようだった。それに気づいたころには、猛烈にお腹が空いていた。

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