逆上

ダリダ石川

第1話

高速道路を下りてからもう随分と時間が経つ。ナビは国道沿いの谷川から右手へとはずれ、狭い山裾らしき地形に車を走らせた。明かりひとつ灯さぬ民家の集まりを縫うようにして通り過ぎ、曲がりくねった山道をたった一台の車が登っていく。

「おいおい、まっくらでなんにも見えねえな。ほんとにこんな方に、温泉宿があるのかよお」

「ふふっ。でも、なんか面白そう」

 目の前の暗闇が車をすっぽり覆い隠してきた。

 上り坂が下り坂に変わったところで、道は渓谷沿いに出た。

「おっ、看板があったぞ」

 やっと遭遇できたひとつの明かりに安堵の声が漏れた。

「もうじきだわ。旅館の名前が書いてある」

「おう、なんか美味しいものも食べてみたいしな」

 看板の明かりを通り越し、さらに車は下る。暗くて何にも見えないが、うっそうとした喬木が深い谷川を覆っているのが想像できる。深山幽谷。昼間だったらさぞかし、趣のある景観なんだろう。つきあたりの岩壁をヘッドライトで照らしながら大きく巻いたところで、二階建ての旅館の明かりが前方に現れた。一軒だけ。近づくにつれ、流れる谷川の水音が耳元でにわかに騒ぎだした。玄関周りの明かりがその激しい水しぶきにでもたたかれるように、チラチラまたたいている。

 「駐車場がないんだな・・よし、ここへ停めよう」

 旅館の入り口を過ぎた道脇に、車二台ほどが停まれるスペースが空いていた。

「そしたらちょっと聞いてくるからここで待ってて」

「わかったわ」

 エンジンをつけたまま、外に出た。寒い。水車でも回っているんだろうか、水のぶつかり合う音が夏の蝉のようにいそがしい。

 「ごめんくださーい!」

広い玄関口に、人は誰もいない。ひっそりとしている。平日だからお客さんもいないのだろうか。

「ごめんくださーい!」

 天井の高い梁に声が沁み渡っていく。荒削りのケヤキは煤で黒く光っている。

「はぁーい」

 奥の廊下から、着物をまきつけた中年女性が現れた。きっとここの女将なんだろう。にこにこしながらやってくる。

「あのう、予約してないんですけど、泊まりなしで今から温泉と食事はできるでしょうか」

「大丈夫ですよ。おひとりさんですか」

「ふたりです」

「わかりました。そしたらお部屋へご案内させてもらうまえに、先に料理の方だけを聞いておきますね」

「突然だからできるもので作ってもらえればいいのだけど。でもおなかもすいているからな。できれば豪華な料理でお願いしたいんですが」

「しし鍋料理がこの時季だけなのですが、どうでしょう?」

「それでお願いします」

「あと飛騨牛の炭火焼きと、やまめの串刺し、それに鹿のお刺身と、ふきのとうの天ぷらなどもおつけしましょうか」

「そうしてください」

 玄関口を出て、走った。もうじき畳の上のテーブルに並べられた料理の数々が、やわらかな電灯に包まれて楽しげに会話をするのだろう。そしてふたりが今夜、この旅館を出て、もう一度寒いこの夜空を見上げたところで、俺はきっぱりと未知の銀河へ舵をきるのだろう。


 二階の和室にアウターをハンガーにかけた後、ふたりともジーパン姿のまま女将さんの後ろについて歩いた。一階に下りると、薄暗い廊下が遠くまで続いていた。外見で想像していたより、ずっと大きな旅館だと思った。ところどころに置かれたランタンの灯りがからし色の土壁を、晩秋の湖面のさざめきのように陰影をつくって揺らしていた。お客さんは他にいるのだろうか、声ひとつしない。聞えるのはすぐ隣りを流れる川の音だけ。

「お寒いでしょ。お泊りでないから、どてらをご用意できなくて申し訳ありません」

「いえ、おかまいなく。こちらこそ予約せずに突然で申し訳ないです」

「今日はお客さんが少ないから静かです。でも週末は団体客さんたちで賑やかなんですよ」

「あ、これは鬼の面ですか」

「そうです、赤鬼のお面です。サルタヒコとかいう、昔の神様なんらしいけどね」

「へえー、そうなんですか」

 格子の障子紙戸の上に、赤鬼の顔が黒い影を刻んで真正面を向いている。サルタヒコ、がこんなところにいた、とはな。こんな異郷の地で出会うとは。何年もかけて探し回った挙句、こんなところで安易に出会えるなんて、まるで俺がこれまで歩んできた苦労をあざ笑っているようではないか。もういい加減にやめてほしい。邪魔する奴はいったい誰なんだよ!

唐突なる対面の感慨を抱く時間をかき消すかのように、しかしやはりこのまま通り過ぎていく俺がいる。そう、何事もなかったかのように、女将さんの後をついていくだけ。時空の空箱がひとつずつ前方からやってきては、身体が時系列にぴったりくっつけられて、ピンセットで整然と刺されていく。女将さんが片方の手を暗闇の前方に差し伸ばすや、こちらを振り返る。

「そしたら、まっすぐ川沿いの回廊を進んでいきましたら、男湯と女湯に分かれた湯屋がありますのでゆっくりおつかりください。料理は三十分後には食べられるよう、お部屋に準備しておきますからね」

「ありがとうございます」

「ありがとうございます」

脱衣場でひとり、裸になって湯屋に入った。ほの暗く立ちこめる湯けむりでよく見えない。やっぱり誰もいないようだ。掛け湯をしたあと、檜で張りめぐらされたお風呂に片足を入れる。けっこう熱い。ゆっくりと肩にまでつかる。全身が震え、そのあと鳥肌がすこしずつ消えていく。雑多な蝉の洪水のような戸外の川の流れのうずのなか、竹筒から内湯に注ぎ落ちていく温泉水の一本の、そこだけが静かな響きとなって肌に伝わってくる。

 湯けむりのたまった高い天井。そのどこからかで、さっきの赤鬼がじっとこちらを見下ろしているような、そんな錯覚になる。もうひとりの俺が俺をじっと凝視してるようで、なぜだか、うれしいような気持ちがにわかに湧いてくるのを覚える。長かった俺の時系列という分身が、ふと、ここでぷつんとふたつに引き離されたような心地よさ。一体これって、何だろう。ぽたり、ぽたり、滴が天井から頭に落ちる。窓の向こうの戸外にランプがひとつ、灯されてぶらさがっている。

 内湯の木戸を開けた。冷気が体を刺す。露天風呂が湯けむりを上げている。板の敷居をまたいで、露天風呂に立つ。暗闇の谷底にせり出すようなかたちで、まわりを大きな岩で積み重ねられている。天井の軒にぶらさがったランプが露天湯のそこだけをゆらゆら、煤けたように照らしている。不協和に影が揺れる。仁王立ちしていた身体を崩し、腰までつかる。犬かきのような動きでランプの下のところまで移動してみる。ランプが照らす狭い赤らみ。小さな波紋。がばりと俺は立ちあがる。

外を見遣った。湯けむりの向こう。暗闇の見えない幽谷。冷気の黒いかたまりが吹きおりてきて、さらけ出した肌をとめどもなく刺してくる。うなり続ける号水の声。

 「やっほーっ」

 若い女の声が遠くで聞える。耳をそばだてる。

「ねえ、聞える?」

 この露天風呂の、竹で編んだ仕切り壁の向こう側の、すぐ近くからだ。

「おう、聞えるよ」

「ひとり?」

「おう、ひとりだよ。そっちは?」

「こっちもひとり」

「・・・」

「・・・」

「ねえ、わたしと今日で終わりにしようと考えていたんでしょう?」

「・・うん?」

「応援してくれる人、見失っちゃあだめだよ」

「それはわかってる」

「そう・・・・・立ってると、ここ寒いね」

「寒い」

「そろそろもどるから」

「うん、俺も。もうすこししたらもどる」

 腰をかがめてもう一度肩までつかる。湯の色がゆらりゆらりと緋色にゆれる。顔を仰ぎ、天井からぶらさがるランプを再び見上げた。

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