第3話

「うい、葵ー」

「ん? ああ真樹」

 思考に没頭していた所でその声を聞き、私は少し身体を飛び上がらせた。見れば、文野くんが女の人と並んでいる。背が高くて髪は長め、スレンダーな身体にオーバーオールをぶら下げている彼女――白河真樹さんは、この花屋の常連だった。必然、私もよく顔を合わせている。だけどそれはここでよく逢うから、というだけじゃなくて。

 彼女は店内に脚を進める、カウンターに立っている私に気付いてにこりと笑い掛ける。悪意なんてまるでない、ごくごく普通の微笑を浮かべて。私も釣られるんだけれど、ちゃんと笑えているのかあんまり自信は無かったり。

「やっほ、皆瀬。頑張ってる?」

「こんにちは白河先生、頑張ってますよー今日もぐったりです」

「って、ぐったりかい!」

 彼女は私のクラスで生物を受け持っている、教科担任なのだ。

 理系科目が得意な関係で、私は先生とはよく話をしていた。まだ大学を出て間もない新任なのだけれど先生の授業は面白いし、本人自体も気さくで生徒と話すのを好んでいる。よく花粉のニオイがしているのには気付いていたけれど、それは職員室で先生の机の上にいつも花が生けてある所為だとだけ思っていた。本人のちょっとずぼらな性格を現すようにまちまちな種類のそれがくしゃみを誘うのは、職員室に出入りするたびの恒例行事みたいなものだったし。もしくは実験で植物を扱う所為、とか。それが実は花屋の常連だったなんて――いや、それだけなら別に花が好きなんだな優しいなー……だったんだけれど。

「真樹、店の中に居ないでよ狭いから」

「あんたが避けなよ。レディファースト、女性優先は先進国として常識だよ?」

「うるさいなー、店先でサクラでもしてれば良いのに」

「そんな事を言う口はどこだ? ああほら、今日の分なー、交換してくれ」

「はいはい、ああそうだ、蓮は元気? ちゃんと餌やってる?」

「餌ってお前……」

 呆れた苦笑を浮かべながら、先生は腕に抱えていた花束を彼に渡した。季節感にも色にも統一性の無い、でたらめな花束。先生はいつもそれと小さめのブーケを交換していく、多分実験か何かに使った余りなんだろう。文野くんはそれを受け取ってから先生の頬っぺた掴み攻撃から逃げた。先生がそれを追う。笑い合いながら続く攻防戦を眺めて、私は溜息を吐いた。

 ちょっと特別のお客様というだけでなく、二人は――よく、じゃれる。

 文野くんとはクラスが違うし、先生が他のクラスの生徒とどんな風に接しているのかなんて知らなかった。だからここで先生と文野くんのツーッショットを見るようになって初めて気付いたのだけれど、先生と彼は妙に仲が良い。馴れ合ってるって言うか、戯れ合ってるって言うか――二人とも名前呼び捨てだし、遠慮会釈無い感じだし。

 気付いてみると学校でも二人は一緒にいることが結構多くて。先生の教材を持たされてたり、生物準備室の掃除をやらされたってぼやいてたり。それでもなんだか仲良さそうに笑い合って話し合ってて、だから私はいつも先生が来る日は少し落ち込んでしまう。

 二人の遣り取りを見てると取り残されたような気分になって、遣る瀬無い心地にさせられる。居心地の悪さを誤魔化そうと、私は別に乱れてもいないのに生けてある花の角度を直してみた。

 二人は楽しそうに話している。今度のテスト範囲教えろ、いくら出す、蘭一株でどう、世話が難しいから無理。アマリリスなんか入ってるけど? 狭いアパートを圧迫する巨大な花はやめろ。

 再度の溜息を吐くと、目の前の花が揺れて鼻先を掠めた。二人の死角に入って小さなくしゃみを逃がす。

 降って来たアザミが頭に刺さって痛かった。


「あの、すみません」

「あ、はいっ?」

 頭のアザミをはらっていたところで声を掛けられ、私は慌てて蹲っていた体勢から身体を伸ばした。中年女性は人の良さそうな笑みを浮かべている。べ、別にさっきのくしゃみは見られてないんだよね? なら良いや、一瞬怯んだけれど私はいつもの営業スマイルを浮かべてマニュアルにのっとる。

「失礼致しました、何の御用でしょうか?」

「予約していた山崎ですが、ブーケを取りに」

「はい、少々お待ち下さいませ!」

 精一杯の空元気で私は笑う。

 文野くんはまだ先生と話しているみたいだった。今度は切花を長持ちさせるための小技を話し合っているみたい。別に悔しくなんか――あるけれど。でも今はせめてお仕事を頑張らなくちゃ、と私は脚を進める。カウンターの奥には、包装の終わったブーケが一つ置かれていた。午後三時、代済み、と簡潔なメモ用紙がセロテープで貼られていた。店長の字だ。アナログの腕時計を見ると針は直角、午後三時。代金は貰っているから、渡すだけ。


 せめて仕事を出来るようになって、役に立つ頑張る子だなーと思ってもらって。そうやってちょっとずつちょっとずつ彼の中に入って行けたら良いな、と私は思う。確かに先生は羨ましいし、二人がどんな関係なのかも気になるけれど、それを知ったところで覆せるわけじゃない。

 私は私のやり方で、せめて少しずつ意識されればいい。ちょっとした接客応対を一人で頑張ったり、お客さんに営業スマイル振りまいたり、こっそりと小人のように花を補充したり――いや、それは自分の為でもあるんだけれど。

 こんな変人花妖怪でも大丈夫って言ってもらえるぐらいになりたい。頑張るぐらい、夢見るぐらい、許してもらいたい。バイトが楽しいのも事実なんだし。

 カスミソウとバラの少し大きめなブーケを両手に抱えて、私は振り向いた。


「お待たせ致しました、こちらになります」

「ええ、ありがとう」

 花を渡してお辞儀、去っていく後姿にふぅっと私は息を吐く。段々接客に慣れて来て、緊張もしなくなってきた。大概が女性客だからまだ気安いのかな? 思いながら花を見る。色とりどりに様々に、綺麗な色彩を散らしている。

 良いな、とぼんやり思った。

 何にも考えないで咲いてるだけで愛される。昔の私はそんなに好きじゃなかったけど、今は素直に良いなって思えるし。何より文野くんは花が好きだし。いっそ花になっちゃえればな、なんて。

 ん?

 なんかこの感じどっかで――

 ……気のせいかな?

「ん、どしたー皆瀬?」

「へ?」

「ボッとしてたぞ? なんだ、まぁた花粉症ぶり返したか?」

「ふ、不吉なこと言わないで下さいよ先生、もうあんなの絶対嫌なんですから! 昔からマスクしてたから結構色々言われたんですよ、口裂け女とか……」

「口裂け女? マスクの所為で?」

 先生が寄り掛かっているカウンターの内側、注文されたブーケを作っていた文野くんが私を見た。彼の口からその言葉を出されると正直少しつらいかもしれない――心臓に悪くて。だけど、文野くんはなんだか妙に不機嫌な顔をしている。私が首を傾げると、彼はいつもより低めの声で呟く。

「酷いこと言うね、花粉症なんて仕方ないことなのにさ」

「あ……でも、そんな気にしてなかったから」

「皆瀬さんが気にしてなくても僕は嫌だよ、そういうこと言う人って。ちゃんと可愛い顔してるのにさ」


 それはお世辞だと判っているんだけど、

 それでもやっぱり嬉しくて。


「あはは、皆瀬、顔赤いぞー?」

「そ、そんなことないですよッ」


 顔が熱いと自覚はあって、だから背けた。

 目の前にはディスプレイされていた花が。

 花が、鼻を、掠めて。

 って、どんなジョークですかそれは?


「は……」


 やばい、逃げられない、これは。


「ッ」


 まずいまずい、反射的に眼なんか閉じてる場合じゃない。て言うかコンマ数秒をマッハに駆け巡るこの思考、中々凄い。論点はそうじゃない、おおセルフ突っ込みまで入れられる。だから違うってば、現実を見て私! 文野くんも先生も居る、ここでやってしまったら人生がエンドロールを流すこと必至なのよ! むしろ必然なのよ!


「くしゃんっ!」


 この特異体質になって一ヶ月。

 自室でひたすらくしゃみを繰り返し、花を出し、こそこそお店に紛れ込ませてきたその間、何も学ばないところがないわけではなかった。

 どうやら、くしゃみが盛大であればあるほど、出る花の量は多くなるらしいということ。小さなくしゃみの時は量が少なくて、だけど大きなものが出ることが多い。アマリリスが出た時には、流石にこそこそベランダに隠すしかなかった。逆に盛大なくしゃみをすると、ちまちましたものが雨か雪のように降り注ぐ。レンゲやツツジなんかが頭上から降り注いだ時には、襟足から服に入って大変だった。

 そして、幼い頃から花粉症に苦しめられ、くしゃみを繰り返し、年中マスクを付けていた私の肺活量というものは、随分なものらしい。陸上選手も普段はマスクをつけてトレーニングをし、本番ではそれを外す。すると一度の呼吸で得られる酸素が多くなるのだという。私はそれと同じ事を十年間続けてきたのだから、くしゃみで放出される空気の量も半端ではない。


 つまり。

 現状。

 巨大くしゃみ。


「うわぁっ」

「……わあ」


 クレオメ、セージ、サルビア、萩。秋の花シリーズは私の足元に積もる。サルビアは種類も豊富に鮮やかな色彩。デイジー、クチナシ、セシリア、クレマチスにセントポーリア。春の花は文野くんの髪に絡まって。ひなげし、ボタン、芍薬、ルビナスにカーネーション。初夏の暖色系は先生のオーバーオールの中に入り込んでいた。桜は空中で散ってしまったのか、花弁がひらひらと辺りを舞っている。この桜吹雪が目に入らないか? 花花花花――花の洪水、むしろ花ダム決壊。店中が花に埋もれる。足元は花畑、いっそ見事な花屋っぷり。


 えぇと。

 流石にこんな大量なのは――初めてかも。


 嫌な沈黙が流れる。私は直立不動、顔を動かすことも出来ない。初めて文野くんに会った時のような緊張、カチコチと身体が固まっている。指先が冷たい、筋肉が収縮して血液が回っていかない。背中を冷や汗が滑り落ちる、だけど心臓は早鐘どころかドラムロール、エイトビートにリズミカル。ハードロックの前奏が聞こえてきそうなぐらいに規則正しく不規則――自分の日本語が混乱によって不自由になる様子が、ありありと判る。サヨナラ日本、旅立つ僕は真珠湾。どちら様ですか自分。

 えぇと、何ですかこの洪水。何でしょう、この現状。何が起こったんでしょうね? いやあ長い夢を見ていたんですよこの一ヶ月、ほら、あの遅刻しそうになった日? あの朝にきっと事故に遭って、ずっと寝たきりで、妄想と言う名前の夢の世界を生きていたんですよ、あははははは。そろそろ眼の覚める頃ですかお医者様? そんな都合良く行きませんか神様?

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