第2話

 文野くんは花屋の息子だけあって、いつも花のニオイを漂わせていた。つまり、イコール、いつも花粉を付けていた。酷い時は風上に周られただけでくしゃみが出てしまうぐらいに強烈で、近付けるのは無風の日だけ。でも私はマスクで顔を隠し、真っ赤な顔しか向けられない。恋する女の子に、それはあまりの拷問だった。

「なんで私はこうなのよー……なんでこんな酷すぎる花粉症なのよっ!」

 ばす、と部屋でクッションを殴るのもいつもの事だった。ちなみに部屋の窓は嵌め殺し、ドアは出入りの際の最小限しか開放しない、空気の循環は小さな扇風機のみという密閉空間。それでやっと私はマスクを外し、目薬も差さず、自然体でいられる。

 自分の身体の不便さなんてよく判っていた、それはもう痛いほどによく判っていた。小さな頃は煩わしくてマスクをしているのが嫌だったけれど、外すと大惨事になると理解してからはむしろ積極的に付けていた。目薬を携帯するための小袋だって自分で作ったし、外では自然と風上を歩くような習性まで付いていた。そう、そのぐらいに、この体質には慣れてしまっていたはずだった。

 だけど状況が変わると、やっぱり恨めしい。なんだって私だけこんな目に遭わなきゃならないんだろう。マスクで半分隠した顔しか好きな人に向けられないなんて、あまりにも残酷な現実だ。充血した赤い目でしか見詰めることが出来ないと思うと、神様にヘッドロックを掛けたくなる。うー、と唸りながらベッドの上をごろごろ転がっていたところで、私はある事を思い出す。転がるのを止めて床に放り出していた学生鞄に手を伸ばし、サイドのポケットに入れていた小さな袋を取り出す。

 このシーズン、どこの部活でも新入部員の獲得に殺気混じりに燃えている。園芸部は校門で花の種を配っていて、私もそれを貰った。新入生じゃなかったけれど、とにかく通る生徒全員に配っていたんだろう。和紙とセロテープで作られた紙の袋の中からは種がいくつか出てきた。どれも違う花のものみたい、少しずつ形の違う黒い粒。掌にそれを乗せて、私は溜息を吐く。

 種なら流石に平気。双葉も大丈夫。でも、一番綺麗な花の咲いた時が、私に殺人的なダメージを与える。綺麗なバラどころか野に咲くタンポポすら、私には棘まみれに見える。

 花は嫌いじゃない、綺麗だし。ドライフラワーや造花ぐらいしか間近に見られないことが恨めしいと思ったことだってある。だけど今は、体質と同様に花が憎らしい。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、花が憎けりゃ種まで憎い。沸々と湧き上がって来る怒りと衝動に、私の手が震えていた。


 本当に、なんでなんでなんで。

 私ばっかり、こんな目に。

 正々堂々近付く事すら出来ないなんて。

 顔すら晒せない、声すら濁るなんて。

 ――不公平にも程がある!


 ……正直、この時自分が何を考えていたのか、今となっては私にもわからない。多分怒りとジレンマとで、通常の思考回路が変な方向に繋がってしまっていたのだろうと思う。一ヶ月経った今ではそう思うのだけれど、本当の所はやっぱり――分からない。

 良薬口に苦しとか、毒を持って毒を制すとか、薬も過ぎれば毒となるとか。ある意味で私にとって花の種と言うのは毒薬に近いものがあったから、もしかしたらそれと同一化してしまえと思ったのか。もしくはただ鼻詰まりで脳に酸素が行っていなかったのかもしれないし、脳内に神様が降臨していたのかもしれない。だとしたら随分残酷な神様だったわけだけれど。


 私は、がばりと、掌の種を口に含んだ。


 顆粒の薬を水無しで飲み込める特技も、思えば花粉症の所為だった。幸か不幸か私は、その数種類の種をしっかりと飲み込み――

 何故か、卒倒した。


 目を覚ましたのは次の朝、目覚ましの所為だった。時間は殆ど遅刻寸前で、私は朝食も摂らずに学校に向かった。いつものようにマスクを掛けて目薬を握り締め、意を決して花屋の前を駆け抜ける――そこで、気付く。

 いつも目に来る不快感が無い、頬が紅潮する感覚も無い。さらに、マスクをしていても感じる、鼻のむずむずする感じもない。

 時間は無かったけれど、私はもう一度花屋の前を通った。次は普通の歩く速度でゆっくりと、だけどやっぱりいつも付き纏っていた不快感はまったく感じなかった。

 恐る恐る、私はマスクを外した。時は五月、花粉はまだまだ絶好調、しかも花屋の前――それは私にとって自殺行為とも言うべき動作のはずだった。走った所為で少し蒸れてしまっていた口元から完全にマスクが取れて、鼻も露になる。勇気を出して思いっきり、鼻で深呼吸をしてみた――だけど、やっぱり、くしゃみが出る事は無かった。

 私の花粉症は、治っていた。

 遅刻なんて思考の範疇外、驚きと喜びで私の心臓は爆発するぐらいに高鳴っていた。それがそのまま身体の外に飛び出すように、思わず飛び上がってはしゃぐ。念願かなって目の上のたんこぶが消えた爽快感、吉良上野介を薙ぎ払ったような感覚。その時私は世界中に感謝して、神様にヘッドロック掛けたい気持ちを持ったことを謝りさえした。

 ――のだけれど。


 ひらり、暖かいけれどそれなりの力を持つ春風に吹かれたのか、落ちていたチラシが舞い上がって私の鼻先を掠めた。その物理的な攻撃に、私の鼻はむずむずとし出す。別にどうと言うこともないと思っていた、どうと言うこともない、ただのくしゃみだと思った。

「ッくしゃん!」


 ばらばらばらっ。


 私の頭上から。

 何も無い頭上から。

 花が、大量に――降ってきた。


 花の祟りか、食い合わせが悪かったのか、私は花粉症の全快と引き換えに――くしゃみをすると花を降らせてしまう特異体質になってしまったのだった。


「ありがとうございましたー」

 文野くんがお客さんを送り出した所で、私はやっとカウンターから身体を這い出させた。

 店番はいつも私と文野くんの二人で、彼のご両親はあまりお店に出て来ない。私達の学校が終わるまでは店長が店に出ているのだけれど、午後はすぐに引っ込んでしまう――少し無表情で怖い感じの店長と、ころころ笑うおばさん。確執はないのだけれど、店長とはまだ馴染めない。だって喋ってくれないし。おばさんとはよく話をするのだけれど、生協で仕事をしているらしくてあまり遭遇率は高くない。

 くるり、振り向いた文野くんが私を見て笑った。文野くんはよく笑う、その柔らかい微笑みが私は大好きだった。ドキドキさせられる、折角花粉症が治ったのに、向ける顔は結局赤い。

「大丈夫、皆瀬さん」

「うん、平気」

「まだ慣れないかな? 判らないことがあったら何でも聞いてくれて良いよ。花も覚えられなかったら呼んでくれれば良いしね」

「ううん、大体は判るんだけどね。フリージアとか石楠花とか」

「花、好きなの?」

「え、えーと……まあね」

 好きだけど苦手だったから、自分が近寄っても大丈夫そうな花を必死で探していた。そのお陰で、私は人並み以上に花の知識はある。もちろん栽培方法なんかはまるで判らないけれど、見分ける能力はあるつもりだった。

 さっき出してしまった花を、私はそれとなく商品の中に混ぜ込む。でも、雪割草なんてどこで栽培してるのかな、この季節に需要があるとも思えないから、商売として何か違和感があるのだけれど――アルバイト風情が経営方針に口を出すべきじゃないか。今はとりあえず、文野くんとお近付きになるのが第一だし。

 あの時、花屋の前で私の鼻先を掠めて行ったチラシは、この『チェシャ』のアルバイト募集のものだった。時給はそんなに良くなかったけれど、私にはお金以上に魅力のある特典が付いているようなものだったから――その日の内に店を訪ねて、即日で採用してもらった。小さなお店だから、先着一名のみだったらしい。

 その点ではやっぱりラッキーだったのだけれど、花屋と言うのは中々くしゃみ率の高い場所だ。花粉症を差し引いても、花を顔の前で持っているとよく擽られてしまう。その度に物陰に逃げ込むのは、かなり危ない綱渡りだった。でも花屋だからある程度のカムフラージュも出来るのであって、本当に、世の中って上手く出来ているのかいないのか。

 小さく溜息を吐いたところで、不意に目の前に手が現れる。

「ッえ」

「あ、ちょっと動かないでね」

 店番二人、他人の手なら必然的にそれは文野くんのもの。色は白いけれど、作業の所為で少し荒れている指先が私の鼻先にある。男の子の手らしく少し大きい、文野くんの手。頭の中が真白になる、何も考えられなくなる。固まっている私の鼻先を、彼の人差し指が撫でた。

 何。何ですか。何をされているんですか。

 にこ、といつもの笑みを浮かべて、彼が私を見下ろす。私の身長は文野くんの眼の高さぐらいで、少し低い。人の顔は見上げると大人っぽく見えるらしいけれど、そんな事は無かった。柔和な微笑は、いっそ中学生みたいにあどけない。

「あ、文野くん?」

「花粉付いてたよ、鼻の頭に。多分百合じゃないのかな?」

「あ……」

「気付いてなかったでしょ?」

 さっきのだ。なんだ、それを取ってくれただけだったのか、私は少し挙動不審になりながらもお礼を言う。文野くんは店先に戻っていった。このバイトは水を撒きながら覗いて行くお客さんの接客をするのが文野くんで、お店の中まで入ってきた人の相手をするのが私というスタイルになっている。

 ふう、と私は息を吐く。


 ……もちろん私は、この特異体質に悩んでいないわけじゃない。花粉症よりははるかに良いと思うのだけれど、くしゃみなんていつどこで出るか判らないんだから、抑えようがない。風邪を引いたら最後、周りがそれこそ花屋になってしまう。私は誰にも――親にも、この体質になってしまったことが告白できないでいた。

 家にいる時は、くしゃみが出そうになるたびにお手洗いに駆け込む。学校では物陰に。突然花粉症が治ったことに皆は驚いているけれど、今はそれだけで、まだ誰にもばれていない。でも、一度でも人にばれてしまったらおしまいだ。破滅だ。どこかの研究所に送られてなます切りのホルマリン漬け、特異体質標本として展示されるに違いない。そうでなくても、まともな人生は送れないだろう。一発ネタのマジシャンにすらなれない。

 それに、文野くんにばれてしまったとしたら、きっと私は――立ち直れない。文野くんに気味悪がられたり、笑われたりしたら、私は絶対に立ち直れないと思う。いつも笑顔の文野くんだから、余計にそう思う。でも私はあの笑顔が好き。ちょっと幼い感じの優しい笑顔が好き。

 本当に――世の中って上手いようで上手くない。

 人に知れたら、と言うよりも彼に知れたら。

 誰にも、本当に誰一人にも漏らすことの出来ない秘密を抱えていると言うのは実に億劫で、しんどい。言葉にすると笑いさえ出る、くしゃみをすると花が降ってくるなんて――花と鼻を引っ掛けた笑えないジョーク。人間ジョークの人生なんて真っ平御免なのに。見世物小屋で太鼓持ち? 使えなくて捨てられて野良猫のように寂しく人生を終える? この年齢にありがちなネガティブ思考だと笑いたい、なのに笑えないのが本当に辛い。

 秘密を持っているほど女は魅力的に見える、なんて言うけれど、こんな絶妙に特異な秘密じゃあ、ただの挙動不審者止まりだわ……。

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