フラワーショップ・シンドローム
ぜろ
第1話
人間、誰だって絶対に他人にばれたくない秘密と言うのを抱えているものだと思う。それは例えば小学校の時に鞄を忘れたまま通学してしまったことだったり、挙句授業が始まるまでその事実に気付かなかったことだったり――過去の事でなくても現在進行形で持ってしまっている、自分の異常だったり。
そういうものを抱えるという行為には、年齢なんか関係ないと思う。程度の差はあっても心理的に及ぼす影響は同一だろうから。小さな子供だったとしても、年齢を重ねていたとしても、突然自分がメルヘンの世界の住人に認定されて、笑うたび背景に必ず花が現れるなんて事になったら驚くし――他人にばれたらどうしようと怯える日々を過ごすだろう事は、まったく同じ影響とストレスを発生させる。
例えば私、皆瀬陽菜子も、そんな類の秘密を一つ――最近抱えてしまっていた。
「いらっしゃいませ、ブーケのお求めですか? 用途をお聞かせ下さい!」
覚えた文句をルーチンワークのように繰り返しながら、私は目の前にいる初老の女性に声を掛ける。銀色の混じった髪に軽く手を当てながら、孫の結婚祝いに、と話す彼女に、私はにこにこと営業スマイルで相槌を続けた。
初めてで判らないことだらけだったアルバイトも、一ヶ月で随分慣れたものだと自分で思う。営業スマイルは随分板について来ていた。
「お式は今月なんですか? それはおめでたいですね、ジューンブライドなんて。あ、お花の希望などおありでしょうか、それともこちらでお選びしますか?」
「それじゃあお願いして良いかしら……あまり、花には詳しくないものだから」
「かしこまりました、少々お待ち下さいませ!」
何よりも元気に。バイト初日に言われたことを忠実に守りながら、私は笑みを絶やさず花を選ぶ。お目出度い席なら、暖色系が良いだろう。いや、婚約なら純白かな? 予算やボリューム、コントラストを考えると……。
頭の中で色々な事を考えながら選ぶ。花を取ろうと膝を崩してしゃがみ込むと、鼻先を近くにあった百合が掠めた。むずむずする感覚が生まれ、あの嫌な予感が私の顔を歪めさせる。
「――ッ」
脱兎、私は逃げるようにカウンターに隠れて再びしゃがみ込む。そして思いっきり息を吸い込み、それを勢い良く吐き出した。
「ッくしゃん!」
瞬間。
バラバラと、私の頭の上から無数の花が降ってきた。
元来――と言うか、ほんの一ヶ月前まで、私は極度の花粉症だった。普通のようにスギやヒバなんかの花粉が飛び交う春先だけでなく、ほぼ一年中あらゆる花粉に敏感に反応してはくしゃみを繰り返してしまう。だから冬以外はずっとマスクを付けていたし、目薬の消費も月に二個という驚異的な速さだった。
十七年も付き合っていると、自分の身体にうんざりすることにも飽きてくる。仕方ないことだ、私はこのままずっとくしゃみを続けて腹筋を鍛えいつか重量挙げの選手になるんだ、そして大会でもマスクが外せないんだ、結局笑い者になって生きるんだ――と、そのまでのネガティブ思考までは行っていなかったけれど、ある程度は諦めてしまっていた。そう、この春までは。
高校も二年に進級した春先、私は生まれて初めて一目惚れというものをした。一番花粉の酷いシーズンで、一番情けない顔をして歩いていた私が、園芸部の花壇に水を遣っている男子生徒に。
鼻歌交じりに水を撒いている様子。楽しげで、優しそうな横顔が半ば唐突にいつもの通学路に出現して――私は足を止めた。
「あの――園芸部のひとですか?」
学校から見れば裏側にあるその道には、園芸部の花壇があった。朝から遺跡発掘中のように黙々と、いわば神妙な顔で土いじりをしている女生徒がいれば、その通り過ぎづらいオーラを緩和するために挨拶ぐらいしていたのだけれど……今まで見たことの無い男の子がいるのには違和感があって。
だけどあんまりに楽しそうにしているから、あんまりに優しそうにしているから、それはどこかいつもと違った通り過ぎ難さがあって――咄嗟に、足を止めてしまっていた。
マスクと鼻詰まりの所為で恥ずかしいほどくぐもった私の声に振り向いて、彼は微笑みを浮かべたままおどけて返す。柔和な目元、少し長めの髪が揺れる。肩を竦めて見せる仕種が、ちょっとだけおかしい。
「違うよ、帰宅部のひと」
「えと、でもそこって園芸部の花壇ですよね?」
「うん、そうなんだけれどね。春休みで部活動休止してたのか、元気が無かったからさ。多分水遣りしてない所為だと思って、勝手にやってるんだ」
「花、お好きなんですか?」
「家が花屋だからね、ちょっと嫌いじゃやってられない事情もあるし――そこの角曲がった所にある店、知らないかな? 『チェシャ』って言うお店」
知っているも何も、毎日前を通る店だった。そしてその花粉に毎日泣かされている。そこの息子が同じ学校に通っているなんて知らなかった、いつも仏頂面の店長が花の出し入れをしているのはよく見ていたけれど。
微笑を浮かべ続けたままに彼は、私の口元のマスクを指差して首を傾げてみせる。少し長い髪が揺れるだけなのに、私はドキドキしていた。マスクをしていて良かったと思う、思い切って声を掛けたは良いけれど、私はずっと頬を紅潮させっぱなしなんだから。
「風邪引いてるの? 顔赤いし、ちょっと声も辛そうだね」
「あ、えと、まあ」
「気を付けなくちゃね、春でもたまに冷え込むから。花だって大変なんだよ」
「は、はい」
「おーい、葵ーッ! いつまでボケボケしてんだ、早くしろ!」
「っと」
少し乱暴な調子で聞こえたのは、女の人の声だった。彼はその方向に顔を向け、もう一度私に振り向いて笑う。葵――彼の名前。刻み付けるようにマスクの裏側、口の中で小さく繰り返す。制服のボタンの色から同学年だというのは判るし、名前と家が判ればこれっきりにはならないだろう。
「それじゃ、僕は行くから――と、そうだ」
踵を返して、もう一度返す。ひゅ、と彼が私に向かって何かを投げた。慌ててそれを受け取るとギザギザになったビニールのちょっと手に刺さる感触、手を開けてみれば、黄色い包装紙に包まれたキャンディだった。はちみつレモン味――顔を上げると、彼は自分の喉を指差して見せる。
「喉を乾燥させない方が良いからね、良かったら食べて? じゃあ、お大事に」
持っていたプラスチックの青いジョウロを軽く振りながら小走りに駆けて行く彼の後姿を、私はぼんやり眺めていた。手の中のキャンディを握り締めて、どきどき煩い心臓の音を聞く。
年中マスクが外せなくて、特にこの季節は充血した目と真っ赤な顔がマスクの白さと対比して笑われてた。小学生の頃なんて、男の子は私を指差して笑うばかりだった――マスク女とか、口裂け女とか。高校にもなるとそんな人はいなかったけれど、でも優しくしてくれる人が増えたわけでもなくて、私は――
どきどき煩い心臓、握り締めたキャンディ、赤い顔はきっと花粉症の所為だけじゃなくて。こんなに嬉しくて笑いたくなる感情は、くすぐったくて気持ちいい。どうしよう、どうしよう。追い掛けて行きたい衝動は実行されないけれど、だけど。
そんな訳で、私はこの花屋『チェシャ』の息子である文野葵に恋をした。二ヶ月前のことだった。
「っ、ふぇ……」
もう一発来るかどうかが判らなくてカウンターから出られない私は、周りに落ちた花を見る。ヒマワリ、蘭、雪割草。見事に統一感も季節感もないそれらを見ていると、いい加減うんざりさせられる。後でまたこっそりどこかに混ぜ込んでおかなきゃ。
チェシャ――『不思議の国のアリス』に出て来る猫のように、このお店は気まぐれな花ばかりを置いている。真夏に椿を置いていたり、冬に紫陽花があったりと、本当に気まぐれだった。
だから、私が出してしまった『色々』を誤魔化すには便利だったけれど、いつそれがばれるか判らないのは、本当に冷や冷やさせられる。うー、と小さく唸る。よし、もう出ない。立ち上がろうと顔を上げた所で、身体に影が掛かった。
見上げてみると、カウンターから文野くんが私を覗き込んでいる。店名の入った濃い緑のエプロンは私と同じだ。少し心配そうな顔に心臓が跳ねる、頭が真白にさせられる。
「皆瀬さん、どうしたの? お客さん放っておいたら駄目だよ……もしかして、どこか具合悪い?」
「あ、ち、違うの、えーと……あ、お花選んでたらちょっとばら撒いちゃって!」
ほらほら、と私は自分の回りに散らばった出鱈目な花々を彼に示した。ああ、と文野くんは苦笑いをしてみせる。
「オーダーは何?」
「えーと、婚約祝いのブーケでコレ」
私は自分の掌を彼に向けて、パーを示す。お客さんの前でお金の話をするのは良くないから、予算を示す時は指を使うらしい。パーは五千円を現している。
頷いた文野くんは、僕が選ぶね、と笑ってカウンターから退いた。私は安堵の息を吐いて周りに散らばった花を掻き集める。危なかった、これが文野くんに知れたら――いや、誰に知れてもまずいんだけれどことに文野くんに知れたら――私はこの町にいられない。
ぐす、と私は鼻の下を指先で擦った。マスクのない口元、上唇の上の柔らかい部分に触れる。もう出ないでよね、と無駄に願いながら。
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