終章◆初夏の住人

 街路樹は殆ど色付き終えて葉を落としてしまっていた。少し冷たい風が吹く事も多くなったある日、私は駅前でぼんやりと信号待ちをしていたところで、通りの向こう側の風景に違和感を覚えてそっちに足を向ける。

 貸し店舗、と貼り紙されたドア。カウンターと広いスペースから見て、バーか喫茶店向けなんだろうな、と思う。通りに面した側の壁には大きな窓があって、その横には枯れた紫陽花があった。汚いな、と考えながら、また中を覗く。

 一瞬飴色の光が灯っているように見えて。

 それからすぐに、錯覚だと気付く。

 早くなってしまった日暮れ、夕日が差し込んだだけだった。厚い雲が時たま覗かせる太陽の光、そうかもう夕方なんだ。このところは大学の図書館でずっと本を読んでるから、時間の感覚がよく判らなくなってしまっているのかも。

 課題やレポートが出ているわけではないんだけれど、私はこの頃本を読むのが好きだ。まあ文学部で活字嫌いなんて方が珍しいのだろうけれど、最近はずっと敬遠していたファンタジー系の本を読み漁っている。やっぱりヴァンパイアって面白い、と思ったり。ストーカーのドラキュラも面白かった。案外弱点が多いのにはちょっとびっくりしたけれど。

 薄暗くて何も無い空っぽの貸し店舗、なんとなく違和感が付き纏うのはどうしてなんだろう。大きなガラスに映った自分の顔を見ながら私は首を傾げる、像も同じ動作をする。

 ここに何かお店があったような気がする。どんなお店だったのか全然覚えていないけれど、それでもやっぱり何かあったような。

「あれ、ここの喫茶店潰れちゃったんだ」

「あきゃあっ」

 不意に背後から響いた声に、私は思わず声を上げてしまった。慌てて振り向くと、一つ二つ年上だろう事が伺える青年が立っている。顎の辺りに無精髭を生やしているけれど、多分大学生ぐらいだろう。

 彼は私を見て、やあ、と軽く声を掛けた。私はなんとなく惰性で会釈をする。彼は私の隣に脚を進めた、像が二つ並ぶガラスの中、彼は溜息を吐く。

「この店結構好きだったんだけどなー、どこ行っちゃったのか知らないの?」

「え? はい、知らないですけど」

「そーなの? 臨時のバイトだったとか?」

「は、はあ……」

 誰かと間違えているのか、でも訂正するタイミングが掴めない。残念だなあ、言って頭を掻いた彼はまた溜息を吐く。

「ここのコーヒー好きだったんだけどなぁ、ミルク入ってても飲めたし。やっぱ他のは駄目だったけど、ここのは美味しくてさー……どっかで見つけたらまた寄らせて貰うかなー。んじゃね」

「あ、はい」

 なんてフレンドリーに爽やかに間違えて行くんだろう、思わず溜息を漏らして私はその後姿を見送った。

 ここが喫茶店だったなんて知らないし、働いてもいない。毎月親からの仕送りがあるから勉学に専念できるし、サービス業なんて絶対自分に向いてないと思うし。絶対お客さんに押し付けちゃうもん、基本が出来ないだろう事は簡単に予測出来るから、選ばないわ。

 踵を返して寮に向かう、冷たい風が吹いて髪を乱した。


 もやもや気持ち悪い胸の中、部屋に戻って私は荷物をベッドの上に放り出した。少し手狭なワンルームマンションみたいな感じの部屋は、それでも一人の生活スペースには十分の広さ。一応こまめに掃除しているから結構片付いているのだけど、やっぱりまだ落ち着かないな。自分の部屋、って感じがどうも薄い。あと三年以上も暮らせば、嫌でもその自覚は出るんだろうけれど。

 空気が篭っているのがいけないのかもしれない。本当はあまり窓を開けないように言われているんだけど――まあ都会は危ないから――少しぐらい良いでしょ。いつも閉じているカーテンを開けて擦りガラスの窓に付いたクレセント錠を下ろし、私は窓をスライドさせた。


 目の前を舞う雪。

 違う、白。

 白くも無い、茶色い枯れた色。

 小さなひらひらとした。

 それは、枯死した花弁。

 ベランダには茶色く枯死した紫陽花。


 何かが過ぎる、脳裏を高速で。早すぎて見えない、何かが。

 紫陽花。そうだ、ベランダにあった。今まで気に止めなかったのは、それが染められていなかったから? 色の無いそれがなんだか判らなくて、だけど片付ける気になれなくて。夕日が赤い。赤い紫陽花。赤い色。赤い花。

 ベランダに脚を進める、ざり、と足の裏で砂が鳴る。死角になっていた場所に、小さな赤い傘を見付けた。ぼんやりと手に取る、小さな傘は子供用だった。私の傘、知ってる、私は――

 傘を、開いた。

 赤い花が咲いた。

 丸い、赤い、それを、私は、知って、


「ま、す……たー」


 傘を放り出して私は駆け出す。


 鍵なんか掛けなくたって大丈夫、どうせエレベーターを開けるにもエントランスに入るにもパスコードが必要なんだから、こんな所に泥棒に入る人間なんていない。いたとしても盗まれて困るものなんてそうそう無い。盗まれたものは、今戻ってきた。無くなって困るものはたった今戻ってきた。

 駅まで全力疾走、通りの向こう側、体当たりするように張り付いた窓、中を覗いても誰も居ない。誰一人居ない。残滓も無い、空っぽの空間。飴色の店内、レトロな雰囲気、高いアンティークなカップ、何一つも残っていない。何もない。何も。


 空っぽになってしまっていた。

 時間が経ちすぎていた。

 全身の力が抜けた。

 残っていたのは、枯れてしまった紫陽花。

 窓の傍で朽ちようとしているその姿だけ。


 部屋に帰る私の腕には、残されていた紫陽花が抱えられていた。開けっ放しだった窓、ベランダに置き去られていた紫陽花の隣に持ってきたもう一つを置く。曇っていた空の晴れ間、差したのは赤い夕日。

 赤く染まった二株の紫陽花。

 電車の音が聞こえる。

 日が隠れる。

 枯れた色に戻る。

 きっとそんな些細な時間だったのだろうけれど。


「好きだったんですよ、マスター」


 漏らした言葉は誰にも聞こえない。


「十年経ったら会えるかなあ」


 誰にも届かない。


「人じゃなくても、誰を愛していても何を誓っていてもどんなにずるくて残酷でも」


 それでも私はあなたの優しさを愛していました。

 くるくると人の心は色を変えてしまうものだけれど。

 それでも貴方を愛した気持ちは違うから。

 そう思っているから。


「次は……子供扱いしないで下さいね」


 ちりちりと夕焼けが胸を焦がす、涙を誘う。それでも思い出は優しくて綺麗だった、マスターの微笑は優しくて嬉しかった。

 マスター、もし私がずっと貴方を愛し続けていたら、私も強くなれますか? 優しくなれますか? そして弱くなりますか? 私の知らない誰かをずっと愛し続ける貴方のように、貴方の誇りのように。

 弱くても良いです。それでも良い。どうしようもない弱さを受け容れて、それでも貫き通します。

 また貴方に会える日のために、私は強くなります。

 そして今度こそ、貴方に逃げられないように。


 だから。


 優しい微笑を下さい。

 変わらない笑みを下さい。

 飴色の色彩の店内で雨宿りをさせて。

 何も出来ない子供じゃなくなるように、色々な事を教えて下さい。

 私はもっと貴方の事が知りたかったんです。

 例えば名前とか。

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初夏の住人 ぜろ @illness24

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