第四章◆床の住人

 梅雨が終わって。

 夏を迎えて。

 マスターは急に、体調を崩した。


 最初はたまにふらついて眩暈を起こす程度だった。だけど日を追うごとにその頻度は高くなって、顔は青白くなっていって、そしてとうとう現状――床に着いたまま、起き上がれなくなってしまっていた。

 大学は夏季休業に入っていた。本当は実家にでも帰ってゆっくりしようと思っていたのだけれど、私は東京に残ってマスターの看病をしている。眼を覚ます事も少なくなってしまったマスターは蝋人形みたいに青白い顔をしているのだけれど、その額には大粒の汗が浮かんでいた。それを冷やしたタオルで拭き取りながら、私はただ見ているばかり。

 医学書を読んだって、ヴァンパイアの治療法なんか書いてない。私には何も出来ない。何も出来る事がない、ただ店のカウンターに立ってカップを拭いて、時間になったらマスターの様子を見て、それしか私に出来る事は無くて、それが悔しくて堪らない。ぎゅ、と口唇を噛み締めても、どうにもならない。込み上げる感情に悔しさを感じながら、私はそれでもマスターを看る。せめて眼を逸らさずに、看ている。

 サイドボードに置いた洗面器にタオルを浸して冷やす。置いてあるペン立てやメモ用紙に水は飛んでないかな、少し気になるけれどそれは後で片付ければ良いか。私は枕の上に深く埋もれるマスターの頭を見る。いつも撫で付けられて後ろに流してあるはずの髪は乱れて、少し新鮮だな、なんて場違いに思った。

「大した事は、無いんですよ」

「マスター?」

 眼を閉じていたマスターの口唇が動く。

 ゆっくりと開いた眼。身体を起こそうとベッドに手を付いて、だけどその身体はバランスを崩してしまう。私はマスターの肩を支えた。白い無地のシンプルなパジャマから伝わる湿った感触。水分の補充をした方が良いかも、ガラスの水差しに視線を向けた私にマスターが笑い掛ける。疲れた笑み、目の下には隈が出来て、なんだか突然老け込んだような印象があった。

「夏は、よくある事なんです。太陽が近い、陽の領域が克ちすぎる。毎年の、事なんです……何も心配はいらないんですよ、咲夜子さん。ほら、早く寮に帰らなければ、門限に遅れて……しまうの、でしょう?」


 苦笑をしてみせるマスターに、私はキッとした視線を向ける。

 大した事がない? 青白い顔をして、汗だくになって、口唇だって白を通り越した紫になりかかってるのに。

 大した事がない? 立ち上がれなくて店にも出られなくて何も食べられなくて段々痩せて、頬だってこけてきてるのに。

 大した事がない?

 よくある事?

 苛々、苛々。頭の中に生まれてくるのは、胸の奥から湧き上がってくるのは、理由の知れない気持ち。沸々と私の体感温度を上げる。眼が熱い、鼻の奥も熱い。ツンとする感覚、瞼が水分に包まれる。膜が張る。


「寮には、実家に戻るって届けを出してありますから……大丈夫です」

「ああ……そうですね。帰らなければいけないんですよね。それなら早く帰って、ご両親に顔を見せて――」

「マスターを置いてなんか行けません!」

「咲夜子さん?」

 荒げられた私の声に、マスターがキョトンと眼を丸くして見せる。荒い呼吸、浮いている汗。血の気の無い顔、私はその全てを目に焼き付けながら言葉を探す。呼吸を繰り返して自分の心を落ち着けて、酷い事を口走ってしまわないように、理論的に論理的に考えようとする。

 なのに言葉は何も浮かんでこない。

 浮かんでくるのはマスターがコーヒー入れてる姿とか、カウンターでカップを拭いてる姿とか、サービスでタダのコーヒーを出す姿とか、私にもコーヒーの淹れ方教えてくれた時とか、色々、色々な事。画像じゃなくてテキスト情報を引き出したいはずなのに、頭の神経が上手く繋がってないみたい。なんで?

 私は今とても混乱しているんだろう、とても戸惑っているのだろう、そんな状況把握は簡単に出来る事なのだけれど。


 だったら今どうしたら良いのか、それを考えなきゃ駄目なのだけれど。

 出来ないよ。

 何も出来ないよ。

 何も浮かんでこないよ。

 言葉が出ないよ。


「血、飲んで……下さい、マスター」

「…………」

「飲めば少しは良くなるんでしょう? 私、良いですから。腕でも何でも切って血出しますから、それ飲んで下さい……元気になって下さい。そしたら私寮でも家でも帰ります、それからまたここで働きます。お店開けて下さい、元気になって下さい、心配させないで下さい……ッお願いですから、マスター」

 しゃくり上げて喉を引き攣らせて、私は言葉を搾り出す。

「薬飲んでも、何か食べても、とにかく元気になって下さいッ……居なくなっちゃいそうです、マスター消えちゃいそうです、そんなの怖いです、悲しいです、嫌ですッ」

 あの時のように店が消えてしまいそう。

 忘れた傘を取りに行った日、外は晴れて気持ちの良い風が吹いていた。ぱたぱた走って水溜りを避けながら向かった喫茶店、そこにはまだ読めなかった難しい漢字が書いていた。貸し店舗、連絡はこちらまで。影も形もなくなってしまった飴色の空間、一緒に飲み込まれてしまった赤い傘、ネコの顔の形をした柄。最初から何も無かったかのように消えてしまっていたのはどうして? またそうなってしまわない保障なんて無い。

 私はマスターに消えて欲しくない、離れて欲しくない、死んで欲しくない、だからお願いする。私に出来るのはそうやってお願いをする事だけ。血を飲んでくれるように頼むだけ。栄養を取ってくれるように頼むだけ。

 マスターは私を見ながら、困ったような顔をしている。手を伸ばして私の髪に触れる、それからぽんぽんと頭を撫でる。子供扱い、子供だけれど、それでももう十年前みたいな子供じゃない。あんなに幼くないし、無知でもない。誤魔化されたりしないし、止められたりしない。


 私は。

 私はですね、マスター。


「薬なんて……効かないんですよ」

「え……?」

「そんなものは、効かないんです」


 宥めるように幼子を諭すように繰り返される言葉の意味が判らなくて、私は呆けた顔を見せる。マスターは苦しそうに笑う、それは苦笑ではなかった。嘲笑でも哄笑でも微笑でもなく、ただの笑顔だった。

 何も感じさせないようにするような笑顔。


「だって……紫陽花、薬になるって」

「嘘です」

「嘘?」

「嘘です。紫陽花は確かに薬になりますが、そんなもの、この身には何の足しにもならない。どんな薬もこの身体には一切影響しません。魔物とは、ヴァンパイアとは、不死王とは、そういうものなんです、咲夜子さん」

「なんで……そんな、嘘を」

「ただ好きだったんですよ、あの花」


 笑うその表情、呼吸は荒く、汗は噴出して今にもまたシーツに倒れてしまいそうな。


「私は人を襲わない、血を飲まない。それを誓った相手があの花を育てていた。薬になるのだといって、病床の父のために育てていた。だから私も育てていた、色々な事を忘れてしまうかもしれないからせめて彼女を忘れないために、私は紫陽花を育てていた。それだけなんですよ。それだけ、なんです」

「マスター」

「一族が国から逃げ出す時に手引きをしてくれたのは彼女でした。私達の為に彼女は病床の父すらも置いて修道院に入り、異端狩りの情報を私達に与え、脱出の手段まで用意してくれた。彼女は私の――」

「良いです、もう良いですマスターっ」

「彼女に付けていた使い魔はボロボロで私の元に返って来た、彼女は魔女裁判に掛けられたそうです。何も言わず、口を噤み続け、処刑台まで持たなかった。拷問で死んだ。水責め、不眠責め、鉄輪、残酷な拷問の中でそれでも彼女は私達の事を何一つ言わなかった。彼女に敬意を表して私は血を絶った。だから私は血を飲みません、咲夜子さん。貴方に何を言われても、どう思われても、どんなに懇願されても、私は絶対に血を飲みません」

「そんなのおかしいです、マスター死にたいんですか? 死にたくて血を断つんですか? こんなに弱って死んじゃいそうなのに、それでもいない人の為にそうしてるんですか!?」


 そんな事忘れて。

 そんな人忘れて。

 言えるほどに。

 私が我侭な子供なら良かった。


「死にたくありませんよ」

「ならッ」

「それでも誇りを失うのなら生きていなくても良い」


 私は。

 私はいらないんですか。

 私はどうでも良いんですか。

 こんなに心配してる私は。

 こんなに貴方の事を好きになってる私は。


「――――の為ならば」


 知らない人の名前を聞いた。

 それが本当に苛々して。

 それが本当に癪に触って。


「私はマスターが居なくなるの嫌です、マスターが弱るの黙って見てるのは嫌です! 私だって、私だってマスターが」

「その先を言ってはいけません咲夜子さん」

「マスター!」

「貴方はただ私に同情しているだけですよ。私が可哀想だと思って同情しているだけです。勘違いですよ。何も、あなたは、感じていない。それが事実で、それこそが事実で、そこだけが真実なんです。だから――もう、良いんですよ」


 冷徹な言葉を聞いた。

 無感情な言葉を聞いた。

 私はサイドボードの上のペン立てからカッターを取る。

 チリチリと刃を出す音、腕に当たる冷たい金属の感触、私は思いっきりそれを引こうとして――


 瞬間、目の前が暗く閉ざされた。


 手で眼が覆われていると気付くのに数秒掛かった。

 私の手からカッターが擦り抜けて、床に落ちるカシャンと言う音が酷く遠いものに感じられた。

 汗ばんでいるのにマスターの手は、

 ゾッとするほど冷たかった。


「マスター私」

「知っていましたよ」

「私マスターに」

「嘘を吐いていたんでしょう」

「本当はレポートなんか」

「課題は出ていなかった。知っていましたよ、そのぐらい。心を読んで恐怖を知る、それがヴァンパイアには出来る。知っていました。知っていましたよ、咲夜子さん」


 声は。


「貴方の気持ちが本当だという事も、知っていました」


 ゾッとするほど。


「ありがとうございました」


 眩暈がするほど。


「私を愛してくださって」


 優しかった。


 ――――私は意識を失った。

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