第三章◆庭の住人

 夜だけのお店。寮の門限もあるし、私の課題やレポートの関係もあるから、取り敢えずシフトは十二時までって事になった。週四日、三時間、あんまり良いバイトではないのだけれど、仕送りを貰っているからそんなにお金に困っているわけでもないし。

 ただマスターを観察するためだから、その上でお給料まで貰えるなら御の字だ。気を付けながらアンティークのカップを拭いて、私はマスターの様子を伺う。のんびりとホットサンドイッチを作っている姿は、紛れもなくただの――人間にしか、見えない。

 姿が変わらない事、それだけがマスターが人間ではない証明、私にとって。だけどその日常を眺めていれば、何もおかしい事など無い。普通に暮らして、普通に働いて、適度にドジやらうっかりミスやらをして。 本当にこの人、メルヘン生物なのかな……。

 疑問に思い始めたある夜、私はその証明を眼にしたのだった。


 夜の喫茶店は結構人が入る、意外にも。疲れた顔のOLやサラリーマン、レポートと格闘する大学生の姿も。この駅の周りには二十四時間開いているファミレスとかも無いから、多分電気代節約をしてるんだろう。電車を捉まえ損ねてちょっと一服、といった感じの人や、恋人と一緒に語らったりしている若者。むっつり新聞を読むお爺さん、なんてのも。

 あまり使われない埃の溜まったカップに布巾を当ててくるくると拭く私は、そんな人々を観察していた。まあ観察する必要も無いぐらいに有り触れた人々だったのだけど、店内にはラジオが低音で流れているだけで視覚的には暇だから眺めていただけ。

 新聞老人にコーヒーを差し出すマスターを見て、私は首を傾げる。

 だって、その人は注文をしてなかったから。

 本人も少し戸惑った様子を見せている。眼を瞬かせてマスターを見上げる老人に、当のマスターは微笑を向ける

「頼んではいなのですが」

「ええ、サービスです。眠気覚ましには丁度良いですよ」

「でもそんな」

「こちらの勝手なサービスですから、気にしないで下さい」

「……すみません、それでは頂きます」

 頭を掻きながらそれを受け取ったお爺さんは、一口コーヒーを飲んで声を漏らす。

「おや」

「どうされました?」

 にこにこしながら訊ねるマスターを見て、彼は嬉しそうに笑う。

「昔近所の喫茶店で、この味のコーヒー出して貰った事があったんですよ。懐かしいな、本当に似ている。あの頃の私はまだ大学生で、毎日に少し疲れてもいて、このコーヒーを出してもらって頑張ったんでしたよ。いやはや、本当に懐かしい」

 眼を細めて嬉しそうにするお爺さんは、ぱたんと読んでいた新聞を畳んで、コーヒーカップの中を覗いた。

 その眼はとても優しい雰囲気をしていて。

 なんだか私も嬉しくなるような、そんな感じだった。

「マスター、もしかしてあのお爺さんの事知ってたんですか?」

「ええ、随分昔でしたけれどね。会った事がありましたので覚えていました。声を掛けたかったのですが怪しまれても仕方ないので、ああやって――まさかコーヒーの味をまだ覚えてくれていたとは、少々驚きでした。咲夜子さん、こちら、あの学生さんに持って行ってあげてください」

「え? あ、はいっ」

 カウンターに戻ったマスターと交わす言葉、差し出されたコーヒーはミルクがたっぷり入っている。香るのは挽きたての豆特有のニオイ、美味しそうだなー。銀色のトレイの上、それを受け取ってから私は首を傾げた。

「オーダー来てないですよ、ね?」

「ええ」

「またサービスですか?」

「はい、そうです」

 くすくす、笑ったマスターに私も返す。脚を進めて、レポート用紙との格闘に精を出している男の人。様子からして二回生か三回生かな、少し無精髭が目立っている口元は乾いていた。ペンが一旦止まったところを見計らって、私は声を掛ける。

「こちらどうぞ」

「え?」

 彼はさっきのお爺さんとおなじようにキョトンとした顔を見せる。キョロキョロと辺りを見回してから、私を見上げた。テーブルに腰掛けている彼を見下ろしながら私は微笑み、営業スマイルはサービス業の基本だし。

「あの、頼んでない……すけど」

「ええ、こちらサービスとなっております」

「はあ……」

 訝しげな表情、渡したコーヒーを覗き込む。彼もやっぱり、さっきのお爺さんと同じにそれを受け取るだろう。それから一口飲んで美味しいと言ってくれるだろうなー、

 ……なんて私は考えていたのだけれど。

「やっぱり結構です」

「え?」

 つい、と返されたカップに、思わず私は声を出してしまった。まだ暖かいカップ、湯気の立っているそれ。白い陶器の中の茶色が私の鼻先まで上げられる。うう、私が飲んでしまいたいわよ、こんな美味しそうなニオイさせられたら。

 私がそれを受け取ると、彼はまたレポート用紙に向かった。さらさらと走らせるシャーペンの音に、私はハッと我に返り食い下がる。

「あの、でも眠気覚ましに丁度良いですし、代金の請求もしないですからっ」

「いえ、俺ミルクが入ってるコーヒーって苦手なんで」

 なんですと?

 ぴしっ、と私の頭に皹の入る音が響く。

「甘ったるいですし、もう少しで終われると思いますから」

 マスターのコーヒーは美味しいんです。それはもう美味しいんです。甘党でコーヒーなんてコーヒー牛乳とカフェオレぐらいしか飲んだ事がなかった私でも飲めたぐらいに大丈夫です。逆も絶対に行けると確信出来るぐらいです。一口飲んでから言って下さい。手も付けずに突っ返されたコーヒーが可哀想だと思わないんですか。ああん?

「でも、ミルクの入ったコーヒーの方が胃には良いですから」

「や、結構ですから」

 ぴしぴしぴしっ。

「一口で良いから飲んでいただけませんか、でないとこのコーヒー捨てるしかないんです。せめて一口、お願いしますっ」

 ぐいぐいぐい。

 食い下がる私を邪険そうな眼で見ながらも、彼は私の手から再度カップを取ってくれた。面倒臭そうにカップを傾けて、面倒臭そうに嚥下する一口。鳴る喉。

「あ」

 漏れた声に、私は内心ガッツポーズ。

「美味しいですね、結構……やっぱ貰って良いですか? 折角ですし」

「ええ、どうぞどうぞっ!」

「じゃ、頂きます」

 笑ってくれた彼に私も笑い掛ける、それからカウンターに戻る。マスターは笑って私を迎えてくれた。私は銀色のトレイをマスターに返す、マスターは受け取る。

 そしてそのトレイで。

「あたっ」

 ごいーん。

 私の頭を軽く叩いた。

「……い、痛いんですけれど、マスター」

「お客様に無理強いをしてはいけません、サービス業の基本ですよ咲夜子さん。今後気を付けるようにしなくてはいけませんね」

「は、はい……でも、マスターのコーヒー美味しいって言ってくれたんですよ! ミルク苦手な方がそう言ってくれたんですよ、私マスターのコーヒー好きだから嬉しかったんですっ! もっとサービスでコーヒー出しちゃいましょうよっ」

「それは流石に出来ませんがね……」


 マスターは、私の言葉に。

 苦笑でも微笑でもなく。

 笑顔を見せた。

 なんだか私は。

 お爺さんの顔を見た時よりも。

 学生さんの声を聞いた時よりも。

 胸の辺りが暖かくなるのを。

 感じた、気がした。


 何かがストンッと嵌る感覚。パズルのピースがやっと噛み合ったようなそんな感じ。


「美味しい、と言って下さるのは、単純に嬉しくはありますよ。道楽で拘っているだけですが、それでも人を喜ばせられるのならば、とても光栄な事ですから。ありがとうございます、咲夜子さん」

 マスターにぺこりと頭を下げられて、私は我に返る。自分も慌てて頭を下げて、なんだか変な感じ。この遣り取りはどこか噛み合っていない。判っているけれどなんだか、私は混乱してしまっていた。

 なんで私、こんなに動揺しているんだろう。なんでこんな、落ち着かない気分になってるんだろう。理由なんか無いはずなのに、なんだか変で、すごく変で、思いっきり変だ。

「そろそろ時間ですね、上がってくださって結構ですよ」

 私の混乱を他所に微笑でそう告げるマスターは、それから思い出したように小さく声を漏らした。エプロンのリボン結びを解こうとしていた私は手を止めて、首を傾げる。

 マスターは屈んで、カウンターの下から何かを取り出し私に差し出した。

 銀色の小さなジョウロだった。

「帰る前に、裏庭の紫陽花に水を遣ってくださいませんか? 今日はまだだったので」

「あ、はい、判りましたっ」


 ジョウロを受け取って私は小走りに裏口に向かう。解けかけたエプロンの紐はそのままに、水道の蛇口を捻って水を溜める。最初は水が底にぶつかる金属質な音が響いていたけれど、底辺に水が溜まるとそれも無くなった。

 水嵩が半分近くなって私の腕が辛くなって、やっと水を止める。

 紫陽花は綺麗に一列に並んでいた。その根元にゆっくりと水を掛けていく。四、五本はあるみたいだけれど、こんな一シーズンしか咲かない花をどうしてこんなに育てているのかな? 考えながらも水を零さないように気をつける。

 紫陽花は赤と青と白、全部がまばらにあった。マーブル、大理石っぽい色合い。まばらで統一性は無いけれど、雨が降ったらきっと一斉に青くなるんだろうな。そういえば空気も湿っぽいし、明日辺り一雨来るのかも。傘、忘れないようにしなきゃ。

 私は紫陽花を眺める。夜に見る花っていうのは、少し、怖い印象があった。白いのなんか幽霊みたいにぼぅっとしてる感じ。遠くから見たらもっと不気味なんだろう、私はジョウロの中に残った水を地面に染み込ませ、裏口のノブに手を掛けた。

 暗闇の中から飴色の店内に戻って、ジョウロをカウンター下のスペースに押し込める。解きかけていたエプロンの紐を完全に解いて、それもカウンターの下に押し込めて。

「ああ、ありがとうございました」

「いえ、お仕事ですから。あの、マスター、なんであんなに紫陽花植えてるんですか? この時期しか咲かないのに」

「ああ、紫陽花は薬になるんですよ」

「薬?」

 きょとん、とした私に、マスターは苦笑して見せる。

「やはり主食を絶って長いと、身体にガタが来てしまいますから。紫陽花は薬に使えるんですよ、昔習った事なので記憶はおぼろげですが。だから育てているんです」

「ガタ、って……そんな事があるんですか? ヴァンパイアって結構無敵系のモンスターだと思ってたんですけれど。なんてったって不死王ですし」

 一応少し声を潜めた私に、マスターは更に苦笑して首を横に振ってみせる。

「そんなに都合の良い生物はいませんよ。主食を絶てば簡単に衰弱を始めます。私は長いので、栄養を取るコツを掴んでいますが……紫陽花の薬も、その一つですよ」

「そうなんですか……」

「ええ。ああ、そろそろ寮の門限ですよ、咲夜子さん。急がなくても大丈夫ですか?」

「え? うっわ」

 腕時計を見て私は走り出す、カラコロ鳴るドアベルの音を聞きながら。背中からはお疲れ様でした、というマスターの声が聞こえる。

 私は紫陽花の前を走りながら、自分も育ててみようかなんて考えていた。

 そしてそんな自分に一瞬青ざめて赤くなる。


 やばい。これは。

 これはなんだか。

 変なスイッチが入ってしまったような気がする、のかも。

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