第二章◆夜の住人
後日。
やっぱり雨が降っていたけれど、私は傘を持って来ていた。学校が終わって駅に立つ、今日も気まぐれからか飴色の店内が見える大きなガラスが見えた。紫陽花の花も見えた。紫陽花の花も、昨日と同じに咲いている。
手に持っているのは小さな傘。昨日私が借りた、私の傘。そして学校の道具を入れているトートバッグ。他意無く訪ねるように見せ掛けるには、この格好が一番良いだろうし。今日はサンダルでもなく革靴だから、大概の事には対処できる。
茶色い木製のドア、金属のノブを回して私はベルを鳴らした。カラコロと鳴る綺麗な音、私はマットで足の水分を拭いて店内に進む。カウンターを覗くと、そこにはマスターの姿が無い。
お店に他の店員さんは居ないって昨日聞いていたのだけれど、店を空っぽにしてどこに行っちゃったんだろう。私は手の中で二本の赤い傘をぎゅっと握って、唾を飲む。もしかして気付かれて逃げられたのかな、それとも何か――
「おや、いらっしゃいませ」
「ひぎゃんっ!」
背後から声を掛けられて私は思わず声を上げてしまう。ど、どうもこの叫び声って変なのばっかりでいけないわ。でも癖ってどうにもならないからなぁ。
慌てて振り向くと、そこにはマスターさんが佇んでいた。手には半透明な手袋をしている、何か作業をしている途中だったのかな? ちょっと席を外していただけで、それこそ他意はなかったのかもしれない。
マスターさんは私が手に持っている傘を見て、ああ、と頷いて見せた。そして眼鏡の奥の小さな目を細める。
「傘を返しに来て下さったんですか、別に良かったんですよ? その傘はもう随分昔の忘れ物ですからね」
「十一年前の雨の日に小学生の女の子が忘れて行ったんですよね」
マスターさんの表情が固まる。
私は続ける。
「その時は千葉にお店を出していたんですよね。やっぱり駅の近く、小さな町。その子が傘を忘れた翌日に、お店を引っ越されたんですよね」
「……貴方は」
「この傘は私の傘です」
「…………」
「夏木咲夜子は、私です。あれから十一年経って私、今年で大学生になりました。こっちの大学の文学部、一回生で、今は親元離れて寮で暮らしてます。やっぱり、気付いてなかったんですね」
「……ええ、まったく」
「どうして、貴方は、何も変わっていないんですか?」
ふぅ、と。
疲れたような溜息が漏らされる。
マスターさんは私を見下ろした。細長い身体、私の身長は大体マスターの眼の高さぐらいだ。昨日はずっとカウンターに座りっぱなしだったから気付かなかったけれど、ちょっと不健康な感じに身体が細く見える。格好の所為なのかな、フォーマルっぽい格好はスマートに見えるから? それもなんか違う気がする、感覚だけれど。
「思わぬ再会、ですか……あの時のお嬢さん。カフェオレが甘くて美味しいと言ってくれたのでしたね。赤い傘、ネコの形の柄、お母さんが買ってくれたと言っていましたっけ。だから捨てられなかった。時効だと思った所で、本人だったとは……大した偶然ですね」
「繋がりが生まれた瞬間から未来は決定されている、ってラプラスは言ってます」
「ピエール・シモンですか、懐かしい名前ですね。ラプラスの魔――だとしたらその存在は、今更私に何を求めているのか」
伸ばされた手が私の目に迫る、反射的に身体を引いて避ける、だけどマスターの手はまだ私を追う、私は――
私はしゃがみ込んで、マスターの膝に思いっきり突撃した。
バランスを崩した細長い身体は後ろ向きに倒れた。
痛そうな呻き声、飛んだ眼鏡。私は更に隙を突いてマスターの上に馬乗りになり、その顔を見下ろした。髪は乱れて、薄い色の眼が私を見上げる。戸惑いと一緒に。腹筋の力で持ち上げられるほどに私も軽くないから、完全に動けない状態みたい。よし、身体的には人間っぽいわけだ。
「マスター、変な事しようとしましたね。私訴えますよ。迷惑行為防止条例違反ですよ今のって」
「……人の上に乗っている貴方はそれに当てはまらないのでしょうか……」
「私は今正当防衛中ですから。そのままドロンなんて絶対させません、マスターが何者なのか絶対教えてもらいます」
にっこり、私は微笑んで。
カバンの中からレポート用紙を取り出した。
「私文学部だってさっき言いましたよね。で、今の課題、ファンタジーに関してなんです。でも私ノンフィクション好きだからよく分からないんですよね。だから、取材させてください。取り敢えず質問始めますけれど、マスターってドリアン・グレイなんですか?」
深い深い溜息、閉じられた眼、降参するように軽く上げられた腕。
「違います……」
「じゃ、何なんですか?」
私の質問に、マスターは答えようとしない。
でも私は応えてくれるまで退く気が無い。
だから結局マスターは、やっぱり溜息交じりに答えてくれた。
「私はヴァンパイアです」
実にベタな答えだった。
「私がこの国に来たのは、そうですね……二百年ほど前だったでしょうか。この国は江戸の後期でしたね。当時の私達はフランスに住んでいました。キリスト教の異端狩りから逃げるために、海に出たんです」
「ヨーロッパって結構広いですよね? 別にイスラム圏とかに行けば良かったような気がするんですけれど。わざわざこっちまで来なくたって」
「ええ、元々はアラビア半島に向かうはずだったんです」
お店のドアには『closed』の看板が掛けられている。私はその看板を見てようやく、普段はそれが掛けられている状態ばかりを見ていたのだという事を思い出した。なるほど、だったら常にアウトオブ眼中だっただろうな。
本日出してもらったのはブラックのコーヒー。昔から甘いものが好き、全然進歩していない私の味覚、苦すぎるそれは敬遠していたのだけれど、とても美味しいと感じた。ちょっと警戒しながらも少しずつカップの中を減らす私は、カウンターの向こう側にいるマスターを見上げる。
「はずだったって言いますと?」
「漂流しちゃったんですね」
あはは。
しちゃったんですねってそんなあっさりと。
「……ちゃった、じゃないですよ」
「一族全員で船を出したんですが、誰も船旅に明るい者が居なかったもので。そのまま漂流して、嵐で散り散りになって、私はこの国に流れ着いたんです」
「物凄くヘビーですよ、それって」
「そうかもしれませんね。あまり自覚は無いのですが」
「で、その後はどうしてたんですか?」
「山奥に暮らしていたんです、最初は」
「それで人を襲ったり?」
「いえ」
苦笑して、マスターは拭いていたカップを戸棚に戻した。それはアンティークのお高いものではなく、ごく普通のシンプルな白いカップ。ちなみに私の手の中にあるのも同様。昨日のように高いカップを使ってくれようとしたんだけれど、流石にそれは私が無理だった。気を使ってしまって味が分からなくなる。
「私はもう、人間を襲わないと誓いを立てていますから」
「ヴァンパイアって人の血を吸って何ぼって感じですけれど」
「だから、そういう意味で私は異端なのかもしれませんね」
「なんで、ですか?」
「それは秘密です」
口元に人差し指を立てて微笑を見せる、私はうーんと唸って、取り敢えずその事は保留しておく事にした。どうせ大して重要じゃないし、なんて考えて。
取り敢えず一通りの事を聞いておきたいな、この人を知るには。私は首を傾げ、続きを促すようにする。マスターは頷いて口唇を開く。
「暫くはこちらの天候状態などを分析して、自給自足で暮らしていました。手付かずの土地も大分ありましたしね、当時は人間も少なかったので、世捨て人然と暮らす事も出来ました。ですが近代化が進むにつれてそれも難しくなり、私は――逃げるように転々と住む場所を変えました。嘘や矛盾がばれるたびに逃げて」
「畑作ったり魚取ったりしてたんですか?」
「そうですね。こちらの料理なども麓の人に習って、その当時に覚えました」
「でも、当時の日本って外国人には……って、そういえばマスターって思いっきり日系の顔立ちですよね。もしかしてこっちの血が混じってるとか?」
「いえ、顔形程度は自在に変えられますよ」
だからそんなあっさりと……。
私の脱力を察する事なく、マスターは続ける。なんか、のほほんとしているのか、極端に自分の感覚に対して鈍っているというか……長生きしすぎた人のハイエンドってこんなものなのかな。だとしたら、かなりマスターの言葉には信憑性があるのかもしれない。
まあ信憑性も何も私自身、この人の身体が十年前と何一つ変わっていない事を確認しているんだから――今更の事だとは、思うんだけれど。
少し遠い眼をして見せて、マスターは更に続ける。
「近代化が進んで、人間が増えて、私もそんな生活を続ける事が出来なくなってきたのは……明治に入ってからですね。測量をしていた政府の人間に見付かりまして、戸籍を作らされて、その時から私は社会と関わるようになりました。戦争の度に死んだ事にしてもう一度戸籍を作り直して。それでも日本が平和主義を唱えてしまえば、そうそう出来ない事になってしまったのですけれどね」
「て事は……現在戸籍上の年齢は、」
「七十というところでしょうね。随分若く思われているものです」
それはまた……。
なんて微妙な……。
「それからはこうやって、喫茶店をしているんですよ。各地を転々として、たまに立ち戻って誰も生きていない事を確認して」
「どうして喫茶店なんですか?」
「コーヒーや紅茶の入れ方には、料理よりも自信があったものですから。難点は日の高い時間や日の出ている時には店を開けられない事ですが、夜だけでも色々なお客さんと出会う事は出来るんですよ」
微笑したマスターの言葉に、私はふうんと頷いて。
ブラックのコーヒーを飲み干した。
美味しかった。
「で、絶対そうだと思ったんですよねっ」
茫然とした顔で見上げてくるマスターに、私はにんまりとした笑みを向ける。
後日、午前の講義が無かったものだから、私は朝一番で喫茶店に襲撃を仕掛けていた。ちなみに武器は塩とニンニク、十字架は下手すると死んじゃうだろうからパス。
逃がすはずなんかない。
ダンボールに荷物を詰めて夜逃げ準備をしていたマスターの肩をガシッと掴んで、私はふふふふふーと笑いを漏らす。
「……咲夜子さん、どうして」
「転々としてるって言ってたから、多分すぐにここからも居なくなっちゃうって思ったんです。駄目ですよマスター、私まだレポート書き上がってないんですから、絶対に逃がしません」
「と言われますと……」
「取材したいんですよ、生きたメルヘンファンタジー」
にこにこにこにこ。
笑った私に冷や汗を掻いた顔を見せ、引き攣った笑いを浮かべるマスターに。
私は履歴書を渡した。
「さ、咲夜子さん……」
「逃げられないように見張ってなきゃ駄目ですからね、だから――」
マスターが持っていたダンボール、ガムテープを剥いで私はさっさと荷解きを始める。っと、これはお高いアンティークのティーセットだったか、気を付けなければだわ……私の生活費じゃとても買えそうにない感じだし。
唖然としたマスターを見て、
私は思いっきりな笑顔を見せた。
外の雨雲を吹っ飛ばせるぐらいに凶悪な。
言葉と一緒に。
「私、ここで働きますから」
真っ青から真っ赤に変わる、マスターの顔色の変遷は、通りに面した大きな窓から見える紫陽花のようだった。
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