第一章◆雨の住人

「う、わ……降って来ちゃったよ」

 昔から独り言を言う癖が中々抜けない私の言葉に、駅から出て行く人が数名振り返って見せた。その殆どが傘の下に身体を隠していて、ごくごく一部は身一つで猛ダッシュをしていく。駅の前の巨大な横断歩道はカラフルな傘ばかり、なんだかビー玉みたい、なんて現実逃避から頭を戻し、私は途方に暮れ直す。


 日の傾き始めた時間帯、なんて言ってもこう雨だと無意味。午後四時の駅前、私夏木咲夜子は、その軒下で立ち尽くしていた。

 確かにシーズンとしては梅雨だから、雨が降っても何もおかしくは無い。おかしくは無いのだけれど、ちょっと間が悪かった。

 昨日もこうやって学校帰りに雨に降られたから折り畳み傘を使って帰ったんだけど、その傘は広げて乾かしていたから寮に置きっぱなし。多分玄関で赤い色彩を広げているだろうその姿を思い浮かべて、私は溜息を吐いた。

 駅から寮までは歩いて十分。走ればもう少しぐらい早く着くかも知れないけれど、あいにく今日の私はサンダルを履いていたりする。親指と人差し指の間にベルトが入っているデザインは可愛いのだけれど、擦れて痛むから走るのは無理。それに、腕に持ったバッグの中は携帯電話を始めとした水濡れ厳禁なものばかりが入っている。配られたプリント、電子辞書、書き掛けのレポート……。


 実家に居た頃ならお母さんから傘を持って来て貰えたのに、でもその実家は激しく遠い。進学のために上京して二ヶ月、こんな時に来てくれそうなステディな人なんて勿論居るはずもなくて。

 だけどこうしていても上がりそうな気配はないし――見上げた空は鼠色、湿った空気はまだまだ続きそう。溜息を零しても結局は一人なのだからどうしようもない。咳をしても一人って誰の言葉だったかしら、文学部失格な事を考えながら私は溜息ばかりを生産する。


 どうしよう、雨宿りでもしようかな。

 キョロキョロ辺りを見回したところで、私は一つのお店に気付いた。

 大きな窓からは飴色の色彩の店内が見える、小さな喫茶店。


 あれ、と私は思う。あんなお店、駅の近くにあっただろうか。この二ヶ月、通学の度にいつも見ているはずのこの道、駅の近く――だけど私の記憶には、その飴色の雰囲気のお店は無い。ような気がする。少なくともこの駅の近くで見た事はない、はずだった。いつもはどうなっていたっけ? と言うか今朝は? 手繰り寄せる記憶は曖昧で、おぼろげ。

 眼に留めていなかったのかな、だとしたらどうして今は目に付いたんだろう。ここで友達と待ち合わせをした事だってあるのに、こうして通りを眺めた事はあるはずなのに、一度も気に止めた事がなかったなんて、ちょっとおかしい。


 思いながらも、私の脚はなんとなくその店に向かっていた。好奇心が勝ったのかもしれない。大人っぽい雰囲気、まあ高校卒業したら十分大人だとは思うんだけれど、やっぱりまだまだな感じは自分にあるんだし。そういうものに惹かれる心が働いてか、私は小走りにお店の軒下に入った。


 覗き込んだお店の中には、瀟洒な空気が淡く滞留していた。レコード、戸棚の上に並ぶのはアンティークな感じのカップ達。幾つも並んでいるのは紅茶の缶なのかな? 飴色のイメージでレトロなんだけれどどこか可愛くて、いつか恋人とこんな場所で時間を過ごせたらなー、と思ってしまうぐらい良い雰囲気を、そのお店は持っていた。


 懐かしい感じ。

 こんなものに懐かしさなんて感じられないはずだけれど。

 それでも懐かしい感じ、だった。


「わちゃあっ!?」

 思わず声を上げたのは、脚に突然冷たい感触が触れた所為だった。慌てて視線を戻すと、店内を覗くために無意識に傾いていた私の身体が、窓の近くに植えられていた紫陽花に触れた所為だったらしい。

「あ、あわわわっ、やばいやばいっ」

 しとどに濡れた花は薄手の服に水分を染み込ませていた。生地は色を変えている、それこそ紫陽花の花みたいに。少し泥っぽい茶色が付いていて、私は慌ててハンカチを出そうと鞄に手を突っ込んだけれど、焦っている所為か中々指にその感触はぶつからない。

 や、やばい、染みになっちゃう、洗濯が面倒なのは嫌だわ。どうしてこんな時に限ってハンカチが見付からないんだろう? どうしよう、少しパニックになりかけた私は、だから自分の背後に近付く気配にまったく気付けなかった――のかも、しれない。

「濡れてしまったのですか?」

「あきゃあっ!」

 前触れ無く声を掛けられた事に驚いた私は、思わずバッグを取り落としてしまった。中から筆箱がはみ出る、身体を屈ませてそれを取ってくれたのは声を掛けた張本人だった。

 白いシャツにワインレッドのネクタイ、黒いベストにスラックス。眼鏡の奥の小さな目で苦笑を見せ、その人は私にバッグを差し出した。私はそれを受け取って、ハッと気付く。

「あ、あの、ありがとうございます、ごめんなさいっ」

「ああ、謝って下さらなくて結構ですよ。こちらこそ、うちの紫陽花が粗相をしてしまったようで……宜しければ雨宿りがてらに寄っていかれませんか? お詫びと言っては何ですが、カフェオレでも如何でしょう」

 丁寧な言葉遣い、スゥとその手が玄関へと私を促す。

 雨宿りをしたいのは山々だし、ちょっと入ってみたいし、彼――マスターさんなのかな――のご好意にも心惹かれるものがあるし。

 私は断る理由を見付けずに、その手に従って店内に入った。

 ドアベルがカラコロと立てる、耳に心地の良い優しい音。

 そういえばさっき、彼が出てきた時には鳴らなかったみたいだけれど――引かれたカウンターのスツールに腰掛ける事で、私はその些細な疑問を放り出してしまった。


 バッグの中に手を入れると、やっとハンカチが指に触れる。とんとん、と穿いていたスカートを叩くと染みはすぐに薄れた。この分なら大丈夫かな、ほっと息を吐くと、カウンターに入った彼――やっぱりマスターさんだったみたい――は、心配そうにこっちを伺う。

「大丈夫ですか? 染みは残るでしょうか」

「あ、大丈夫ですっ。それに元々私の不注意ですから、気にしないで下さい」

「ですが――それではここは心を込めて、淹れさせて頂くとしましょうか」

 笑ったマスターさんの顔は、少し幼い感じだった。

 特に気をつけて見ていたわけではなかったから気付かなかったのだけれど、中々年齢の分からない顔をしているような気がする。中年、は言い過ぎのような気がするし、青年、だとちょっと若過ぎる。軽く後ろに流した髪、眼鏡の奥の少し小さな目。皺はそんなに無い、だけど若くは無い、ような気もして。

 香るコーヒーのニオイに、お腹が少しきゅぅっとする。シナモンシュガーを振って差し出されたカップはアンティークな感じ。ちらりと壁際の戸棚に私は視線を移す。

 高級感漂うカップとソーサーが並んでいて、ちょうど一セット分の隙間が真ん中辺りにあった。そして小さな黒板に白いチョークで書いてある事には、こちらのカップをご使用の場合は別途料金が加算されます、との事。

 高い。絶対高いよ。サービスより嫌がらせだよ、緊張するよ……思いながら私は慎重に、カップを口元に運んだ。熱くない、カフェオレだから当たり前だけれど。猫舌だから丁度良かったな。一口飲んで、甘さが嬉しくて、ゆっくり飲もうとカップをソーサーに戻す。

「美味しいです、甘くて」

「それは光栄ですね」

 微笑んで見せれば返される。私は隣のスツールにバッグを置いて、ほんの少し何かを思い出し掛けた。だけどすぐにそれを忘れてしまう。何だったっけ? まあ、良いや。

「あの、私いつも駅を使うんですけれど、ここのお店気付いた事無くて……いつ頃からお店出していらっしゃるんですか?」

「この十年程は、こちらで出していますよ」

「そ、そうだったんですか……」

「ああ、開けているのはいつも夜ですから、少し気付き難いかもしれませんね。大体九時頃からが開店時間なんですよ、ここは」

「へ?」

 九時?

 それはまた喫茶店としては激しく遅い。むしろ、普通は閉まっている時間帯なんじゃないのかしら。だったら気付かないはずだわ、学校が終わるのが大体四時で――帰ってから駅前まで足を伸ばす事は、殆ど無いんだし。

「あの、なんでそんな時間に?」

 私の問いにマスターは苦笑する。

「夜に、こういう場所を求めてくるお客さんも多いんですよ。そういう人の為ですね。他のお店が開くまで、ここを開けておくんです。疲れた人が多いのですけれどね」

「夜に、ですか……」

 残業サラリーマンぐらいしか思いつかない私の想像力は貧困だった。

「じゃあ今日は? まだ四時ですけれど」

 私の更なる問いに、マスターさんはもっと困った顔をして笑って見せた。

「気まぐれですよ」


 小さな傘の下、私はてこてこと寮へ続く道を歩いていた。

 時間は六時過ぎ。案の定待てども雨は上がらなくて、粘り続けるにも限界があったものだから、私は六時でお暇する事にした。だけど心配してくれたマスターさんは、お客さんの忘れ物で良ければと私に傘を貸してくれて、だから現在私は雨をどうにか凌げている。

 子供用の小さな傘だけれど、折り畳み傘程度には役に立っていて本当に有り難い。後で返しに行かなきゃなー、九時頃から開いていると言っていたっけ。私が住んでいる学生寮の門限は十一時だから、どうにか時間は作れそうかな。家賃は手頃なのだけれど規則が中々五月蝿くて、寮ってのは融通が利かない。まあ贅沢は言っていられないんだけれどさ。

 オートロックのドアをパスワードで開けて、私は寮のエントランスに入った。畳んだ小さな傘、柄の部分がネコの顔の形になっているのがとても可愛い。私も昔こんなの持っていた気がする、もうよく覚えてないけれど。

 水を切ってぱたぱたと振る。次はエレベーターに乗るための暗証番号を打ち込まなきゃならない。無駄に厳重なロックだと思うのだけれど、まあセキュリティは過ぎているぐらいが丁度良いか。無くなって困るものは別段思い付かないけれど、と、私はパスナンバーを打ち込む。開いたエレベーターには誰も乗っていない。フロア番号を押して、重力の狂う感覚に私は溜息。


 雨宿りと粘り続けていた二時間、お客さんは誰も来なかった。だから私はマスターさんと随分長い事話し込めたのだけれど、ただその不思議なところばかりを見付けたような気がする。外見の年齢にそぐわない雰囲気だとか、言葉の抑揚の付き方の独特な感じだとか、とにかく色々。

 もう一度行ってみたい、私はそう思っていた。喫茶店にお金を掛けられるほどリッチな暮らしをしているわけではなかったけれど、それでもマスターさんとお話をしてみたい。もっともっと。

 どこか懐かしい雰囲気のある、お店の雰囲気。マスターの雰囲気。

 もう少しで判りそうなのだけれどおぼろげな空気の記憶。

 チン、とベルを鳴らして止まったエレベーター。私は廊下に出て、自分の部屋の前へと脚を進める。と、そこで、傘のベルト部分に名札が下がっているのに気付いた。止めていなかったから気付かなかったな、私はその名前部分を見ようとしてもう一つおかしな事に気付く。

 夜しか開いていない喫茶店に、どうして子供用の傘の忘れ物なんてあるんだろう。

 そして私は平仮名で書かれた名前を読む。


「一ねん二くみ、なつきさやこ……って」


 それは、私の名前。

 不意にオーバーラップするのは十年以上も前の初夏の記憶。

 雨宿りの喫茶店、忘れてしまった赤い傘、柄は猫の形、高いスツール、身体を抱えて座らせてくれたマスターさんの顔は、

 その顔は、

「……嘘」

 記憶の中には寸分違わぬ彼の顔があった。


 立ち尽くした廊下、湿った空気、雨の日。

 その時私は、人生の分岐点の一つにぶつかったのだった。

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