初夏の住人

ぜろ

序章◆過去の住人

「雨、降ってるね」

「そうですね。梅雨ですから、これは暫く続くでしょうね。傘を忘れては大変です」

「うん、ちゃんと持ってきたよ。お母さんが買ってくれたの。持つとこ、ネコさんの形で可愛いんだよ。色赤くてね、綺麗なの」

「そうなんですか。良かったですね」

「うん、嬉しいー」

 甘いカフェオレのカップを受け取った子供に、マスターは微笑みかける。高いスツールの上に腰掛けて脚をブラブラさせる子供は、隣の椅子に赤いランドセルを置いていた。少し濡れて光沢を持っているのは、外が雨だから。梅雨空が降らす小さな水の粒は、傘の中に入りきれない荷物を濡らしてしまう。だから雨宿り。

 笑う少女は甘いと呟く。そして美味しいと続ける。若くは無いが中年と言うほどでもない、年齢を感じさせない顔立ちを綻ばせて、マスターは笑った。白いシャツの上に黒いベスト、ワインレッドのネクタイ、きっちりとした身なりのマスターは、眼鏡の奥の小さな目を優しそうに細める。その様に、少女はもっと顔を綻ばす。


 近所の喫茶店はいつも閉まっている。入ってみたいと思うのは閉じられている場所だからという興味、そして少し背伸びをしたい子供心。だから開いているのを見付けて、入った。綺麗な内装の店内は全体的に飴色のようでセピア色のようで、子供には分からないはずの不思議なノスタルジィを感じさせる。


 優しそうなマスターはカウンターの椅子を引いて、抱き上げて座らせてくれたし。

 ただで甘いカフェオレも出してくれたし。


 少女は笑う、マスターと窓を見る。少女もつられる。空は曇っていたが、雨粒は落ちて来ないようだった。

 短い晴れ間、しかし少女からこの場所を奪うには十分な効力を持つ天候の変化。せめてカップの中身を飲み干して、彼女はぴょんっと飛ぶようにスツールから降りた。ランドセルを肩に掛けて、真新しい黄色の帽子を頭に乗せて、マスターの顔を見上げる。彼は白いシャツに皺を寄せ、身体を屈めて微笑んだ。

「行かれますか?」

「うん」

「それでは、ありがとうございました」

「ありがとうございましたっ!」


 駆け出してカラコロとドアベルを鳴らした少女の傘は、入り口の傘立てに刺さったまま。

 後日彼女が再び店に立ち寄れば、そこにはテナント募集の張り紙だけがあった。

 傘もマスターもどこにも居なかった、そんな梅雨の思い出は過去のお話。

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