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松山透は大手の電気メーカーに勤め、テレビ製造の技術畑に在籍していた。テレビ事業の業績不振で移動があった。ほかの部署でも技術畑なら構わなかったが、それが営業畑に回されたのである。透には技術者失格の烙印を押されたように思われた。上司は「他の技術畑なら戻すのが難しくなるが、営業畑ならテレビ事業が回復したら戻しやすい。しばらくの我慢だ」と言ったが、体の良い言葉に思えた。
「辞めたろか」と思ったが、その勇気もなかった。移動の条件に半月の休暇を申し入れた。上司は移動を了解してくれたと喜び、「移動の時ぐらいしか長期休は取れないから、すっきりする為にもそれがいい」と、特別に1ヶ月の休暇を許可してくれたのである。
透が気分転換と命の洗濯に選んだ先は、奄美諸島の沖永良部であった。TVの放映ではあったが、映画『青幻記*』を観て、前から行ってみたいと思っていたのだ。映画は沖永良部島を舞台にした、三十数年ぶりに故郷を訪れた男の、若くして死んだ母への想いを、回想形式で描くものであった。太宰治賞を取った小説を映画化したもので、なんでも、監督がカメラマンで、初めて監督した作品ということであった。
沖永良部島の自然が美しく映され、とくに満月の夜、青い海に突き出た岬の野外の舞台で、その母が琉球衣装に身を包んで舞うシーンが印象的であった。
透は丹後半島の日本海に面した漁師町で生まれ育った。父親は漁師で、母親は民宿を営んでいた。父親は漁師のあとを継がそうとしたが、母親が反対した。
「漁に出て、海が荒れた日なぞ、その帰りを心配しなければならないのはお父さんでたくさん」というのが理由であった。
日本海の海を毎日見て育った。とくに冬の日本海の荒波は、小さな船なら丸ごと飲み込むように見える。映画で見たその南の青い海に憧れたのである。1ヶ月の長期間、そんな場所で過ごせる。少し興奮状態であった。仕事のことは帰ってから考えればいい。何もかも忘れて過ごしたいと思ったのである。
旅行社のパンフにはこのように書かれていた。
沖永良部島は奄美群島の南西部に位置する島で、徳之島と与論島の間にある東西に細長いオカリナに似た平坦な島である。面積は東京都の伊豆大島よりも少し大きい。隆起サンゴ礁の島で、島の周辺はサンゴ礁となっている。平均気温22度の暖かい風土により、四季を通じ熱帯や亜熱帯の花々が咲き乱れる…と。
伊丹空港から鹿児島空港へ、昔なつかしいプロペラ機に乗り換えて、沖永良部空港に降り立った。この空港は1969年(昭和44年)に出来たから、それまでは列車で鹿児島まで行き、船で530キロを17時間かけて南に下るのだから大変だったろうと想像した。
2月というのに初夏のような日差しであった。空港のタクシーに乗り、予約している民宿に向かった。車は海岸沿いを和泊に向かって南に走った。コバルトブルーの海が車窓から見え、日本海の荒波を見て育った透は、神戸の大学に入って瀬戸内海を見たときも静かな海に驚いたが、こんな色の穏やかな海を初めて見た。来て良かったと思った。
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