第2.5話
夕闇が森に広がり始める頃。
その人はやってくる。
「おい、人間。買ってきたぞ」
台所で作業をしていたサクは、声をかけられ、振り返る。
いつのまにか、食卓の上に生活雑貨と食料が並び、その側の椅子に長身の男が座っていた。
急に現れた男に、サクは赤い目を見張るが、すぐに、笑顔で答えた。
「ありがとう、使い魔さん」
サクの答えに、男は眉を寄せる。
端正な顔立ちだが、そうすると目つきが悪くなり、一見して怖いお兄さんだ。
「俺は使い魔という名前ではない」
しかし、サクは構わず、応える。
「私も、人間という名前ではないわ。サクという名前があるのよ」
「お前なんか、人間で十分だ」
「じゃ、貴方は蝙蝠で十分ね」
事実、この男は蝙蝠の使い魔だ。
「何だと?!」
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「お前なんぞに、呼ばれる名はない」
「あ、そう」
そこまで言い置いて、サクは作業に戻った。
ここまでの応酬は、いつものこと。
ある意味予定調和のやりとりだった。
男も、今までの応酬に構わず、サクの作業が気になったらしい。
「何をしているんだ?」
「ベリーパイを焼くのよ」
「ベリーパイ!」
男の表情が途端に明るくなる。
一瞬にして上機嫌になった男をみて、サクはひっそりと笑う。その様子が伝わったのか、男は、はっとすると慌てたように言った。
「べ、別に、嬉しいわけじゃ」
「そう? じゃあ、いらない?」
「……いる」
「よかった。……で?」
面白いなぁ、と思いながら、サクは笑顔で首を傾げた。
男も言いたいことがわかっていたらしい。
頷いて、一つの紙袋を差し出した。
「わかってる。ちゃんと買ってきたぞ」
「待っていたのよ。ありがとう」
サクが目を輝かせてその紙袋に手を伸ばす。
しかし、その紙袋がサクの手に渡る前に、ひょいと横から出てきた手がさらっていく。
「あ」
「さて、これは何かな?」
起き出してきたばかりなのだろう。
寝癖のついた髪を触りながら、若い男がその紙袋を手にしていた。
「ケイ、起きていたの?」
「今起きたよ。で、これは?」
紙袋を示し、寝起きの男が笑顔で問う。
その笑顔が怖いのは、サクの気のせいではないだろう。
「えっと、それは……」
「どこにいくのかな? ユエ」
サクが答えあぐねていると、先ほどまでそこに座っていた男がそっと立ち上がって、そこを離れようとしていた。
その背中に、寝起きの男の笑顔が突き刺さる。
逃げ損ねた男は、ゆっくりと振り返り、乾いた笑みを浮かべた。
「あ、主、それは、その……」
「また、余計なもの、買ってきたのかな?」
笑みが怖い。
普段はとてもとても吸血鬼とは思えないほど穏健な彼が、今は、牙を研ぐ虎のように獲物を見定めている。
「それは、そのぅ……」
逃げそびれた男の声はだんだんと小さくなっていく。
それも、当然だろう。なんたって、逃げそびれた男にとって、彼は絶対的な主人だ。
縮こまる使い魔を、冷たい目で見つめた寝起きの男は、黙って紙袋の中身を取り出す。
「あっ……」
サクが目を見張る。慌てて止めようとするが、間に合わない。
そして、男が紙袋から取り出したのは。
「本?」
普通の本屋に売っているような本だ。
「それは、」
慌ててサクが手を伸ばすが、男の方が身長が高い。男が手を上げれば、サクには手を伸ばしても届かない。
そのまま、男は本の中をパラパラとめくって。
そして、そのまま停止した。
その隙に、顔を赤くしたサクがジャンプして本を奪い、胸に抱えた。
それでも、寝起きの男は固まったまま。
それは仕方がない。
何故なら、そこには文字ではあったが、濃厚なラブシーンが描かれていたのだから。
それは、今、巷で話題の、ちょっと過激な恋愛小説だった。
一応補足しておくと、男女の、恋愛である。
「ケイの、馬鹿!!」
耳まで赤くなったサクが、固まった男を突き飛ばして、自室に駆け込む。
突き飛ばされた男は唖然とそれを見送った。
サクはこれでも、年頃の女の子。
興味を持つことは不思議ではない。
そして、そこに、羞恥を感じるのも普通だ。
結果として、駆け込んだ自室の扉を固く閉ざして篭るのも、無理もない反応だ。
男が思っているよりも、子供じゃない。
その事実を突きつけられた寝起きの男(育ての親)にとっては、青天の霹靂。
なんだかんだ言って、この男はサクを溺愛してる。
使い魔はそれこそ、サクを育てるこの男を、初めからずっと見てきているのだ。主人が、彼女に対してどんな想いを抱いているか、よく知っている。
そんな、座り込んだままの主人と、逃げそびれた使い魔。
残された2人の間に、沈黙。
そして、不意に目があった。
「ねぇ、ユエ」
「はい」
「なんで、あの子があんな本を読んでいるのかな?」
問われても、使い魔には答えようがない。
欲しいと言われたから買ってきただけだ。
ただ、なぜ、あの本を知ったのかと言えば、使い魔の男が適当に買ってきた料理本の広告を、サクが見たからなのだが。
笑顔で立ち上がる主人をみて、使い魔の男は逃げ道がないことを悟った。
「ベリーパイ、食べたかったな」
そんな男の呟きは、誰にも聞かれることはなかった。
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