第6話 媚薬

 あのヒノエと話した日から三日が過ぎた。月はもう大分太っている。アヤは翌朝何でもなかったかのように部屋へと現れ今までと同じように過ごしている。唯一変わったのはマツバがアヤの持ってきた飲み物に口をつけなくなったことだ。アヤは不思議そうに苦い笑みを浮かべてすすめていたがそれでも飲まないと分かると仕方がない、と引いてくれた。アヤにはまだ祭りに対する話はまだ、聞けていない。


 夜の海は不気味だ。それでもマツバはどうにも眠れずに浜辺へと足を運んでいた。潮の音が妙に耳障りだった。ぼんやりとした月が何か不安を掻き立てた。胆が石のような重さに感じる。何故だか前にもこういうことがあったような気がする。いつだったか、どこだったかさっぱり思い出せはしないけれど。アヤの飲み物を飲まなくなってからどうも、物思いにふける時間が長くなった。綺麗に澄んだ月光に照らされて浮かび上がる淀んだ海はやはり見ていて気味が悪い。どうかすると打ち寄せる黒い波が足下まで不意に伸びて光の届かない海の底まで引きずり込まれそうだ。思考に夢中になっていると今まで来たことのない浜の終わりまでたどり着いてしまった。少し先は高台になっていてそこでプツンと砂浜が終わっている。これはどうしようもないので引き返そう、そう思ったマツバの耳に潮騒に紛れる軽やかな音色が届く。月光が奏でているのではないのかと思われるその音にマツバはひどく好奇心がうずいた。マツバは浜の端まで歩き出した。

 それを見たとき、マツバは巨大な鯨が目の前に打ち上げられたぐらい動揺した。高台の下の少し出っ張った岩陰で何かがそれを歌っていた。何かは形こそ人に近いものがあったが腕には蛇のような鱗があり、脚があるべき場所は別れておらず蛇の尾のようになっている。長く揺れる髪で腰元がどうなっているのかは見えないが明らかに化け物であった。ああ、でも、しかし、マツバは彼女を知っていた。彼女のあの澄んだ優しい声を聞き間違えるはずはない。マツバはただ立ち尽くしてその歌を聞いた。何と言っているのかは不思議と分からない。それなのにマツバの目から熱い雫が伝った。彼女はマツバに背を向けていてマツバに気付いた様子はない。マツバは恐れた。彼女が此方に気付いたら蛇のように自分は呑まれるのではないかと。しかし、マツバ足は逃げるどころか彼女の方へ足音をなるべく立てないようにと近寄っていく。妙な高揚であった、彼女に初めて会ったときの高揚に勝るほど。マツバは遂に海の際まで近寄った。波が彼の足に当たって音を立てる。彼女はようやくマツバを見た。潮騒が急に遠くなる。

「アヤさん。」

 彼女は目を大きく見開いた。人の物とは異なる輝きをもつそれに背筋が冷える。それでもマツバは逃げることは出来ずに彼女の側に立っていた。頬の半ばまで裂けた彼女の口がゆっくりと人の言葉の形をとる。

「まつばサマ。」

 いつもと少し違う呼び方、しかし声は確かに彼女のもの。マツバは思考を放棄した。心を畏れに侵食されながらゆっくりと肩口に近づく彼女の口をされるがままに受け入れた。

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