第5話 待人

 月が次第に満ちていき、それにしたがって海も騒ぎ立てる力を強めていく。全ての生き物の母たる海にすら力を与えるのなら--。


 あの告白から七日ほど経った。思いは通ったものの特段何かすすんだという訳でもなく日々を過ごしている。とはいえ、それだけ経てば身体は回復するものでせめてものお礼にと薪割りなどの雑用を頼まれるままにこなしている。そういえば、歩き回れるようになって知ったが驚いたことにこの屋敷どころか村中に一人たりとも男はいなかった。すると、当然とも言えるがこどもの姿も見受けられなかった。居るのはただ麗しい女性のみである。どういうことか、アヤに一度尋ねたことがある。その時、アヤは眉を垂らして少し苦し気に、"満月になれば分かりますので。"と、だけ言った。それなら満月まで待とう、そう思った。しかし、それからアヤは時折思い詰めた顔をするようになった。特に二人でいるとき、月を見上げるとき、海へ行ったとき、それは顕著だった。

「何か悩み事ですか?」

 アヤはわらを編んでいた手を止めてうかがうようにこちらを見た。

「最近、酷く悩んでいるようでしたので。」

 言葉を重ねるとアヤは視線をはずし先ほどまで編んでいた藁を指先で弄んだ。大きな目がゆっくり閉じられ再び開かれる。灯りに照らされた表情は昼に見る顔より幾分かしっとりとしてなまめかしい。アヤは、少し口ごもった後ようよう愛らしい口を開いた。

「マツバ様はお家に帰りたいとは思われないのでしょうか?」

「私、ですか?」

 マツバは特に動揺することはなかった。彼女の回答は優に彼が想定できた範囲内の事であった。

「別に今さら帰ったところで何にもなりませんよ。それよりは貴女といた方が余程幸せです。」

 もう、構わないと割り切ったつもりだったが声に出すと多少の刺々しさが出てしまう。いけないな、と思って誤魔化すように砂糖菓子のように甘い言葉をはく。しかし、言わない方がましだったかもしれない。アヤは強ばった顔でこちらを眺めている。つい、マツバは顔をそらした。

「マツバ様、どうかこの村からお逃げください。」

 驚いて顔を戻すとアヤが平伏していた。

「一体何ですか? 私は何かしたんでしょうか?」

「いいえ、マツバ様が悪いのではないのです。ただ、私が、すべて...」

 アヤは次第にその綺麗な声を潤ませていった。マツバは理解できないままアヤの背を撫でる。着物の雀が小さく震えていた。

「マツバ様、この村は...」

「アヤ、キノエ様がお話があるんですってよ。」

 突如、ふすまが開かれいつぞやのヒノエがニヤリと顔を覗かせた。アヤは袖で顔を覆って慌てて部屋を立ち去った。マツバとヒノエはその場に二人きりで残された。

「この間は残念でございました。アヤは今日はもう戻ってまいりませんので、どうぞ、気兼ねなく。」

 ヒノエは悠然と部屋の中に入ってきて、頭を下げた。部屋の灯りに金の蝶が舞い踊る。素朴なアヤと違い、ヒノエは居るだけで香りたつような色気を持っている女性だった。相当に魅力的であるのだがその強烈な雰囲気は元々冷めた気質のマツバにとって些か刺激が強すぎた。据え膳であっても思わず萎縮して思考が冴えてしまうほどに。

「どうも、こんばんは。ちょうど良い時に来ましたね。ところでアヤさんは今日はもう戻られないというのは...。」

「ああ、それでしたら...」

 ヒノエは気分を害した風でもなく美しい笑顔を浮かべたままあっさりと教えてくれた。何でも次の満月の夜催事があってその祭で巫女を勤めるアヤは潔斎に入る支度をしなければいけないらしい。満月の夜。全てが分かると言われた夜。さらに話を聞くと何でも満月の夜に結ばれると子宝に恵まれるという言い伝えがあるらしい。

「もしかしてその催事というのは婚礼ですか?」

「あら、あの子言っておりませんでしたの?」

 ヒノエは目を丸くした。少しあどけなくなった表情は実はさほど年が違わないのでは、と疑われる。まあ、今はそれより。

「まあ、でしたらアヤは貴女様を驚かせたかったのかも知れませんわ。私も一度しか見たことはごさいませんが夜の海が輝いてとても壮麗なものなんですのよ。」

 ヒノエは取って付けたように満月の催事について語った。その表情は先ほどの事が尾を引いてか憧れを語る少女のようにいとけない。

「貴女も一度しか見たことがないのですか?」

「ええ、何でも昔はもっと行われていたらしいんですけれど私が物心つく頃にはほとんど行われなくなってしまっていて。」

「それは、どうしてですか?」

「さあ、何でも御客様が来なくなってしまわれた、とかキノエ様はおっしやっていましたけれど詳しくは分かりませんわ。私、若輩者ですもの。」

 一度しか見たことがないというだけあってヒノエは本当によく知らないらしい。問えば問うほど眉が下がっていく。

「それにしてはずいぶん大人びて見えたもので...失礼。」

「いいえ、大人っぽいというのは嬉しいですわ。私、子供のようだとよく言われますもの。」

 それは、内面の話ではないだろうかと思ったがさすがに口には出さない。

「アヤさんには次、いつ会えますか?」

 ただ、それに勝る無粋な質問にヒノエは呆れた溜め息をついた。

「こんな大人びた美人を前にしてもあの子のことなのね。やはり、無駄なのかしら。」

「そうですね、率直に申し上げますと貴女は天女もかくやというほど美しいと思いますよ。ただ、私には恐れ多すぎて、少々手が出せないだけです。」

 さらっと若干の本音が混じった批評を受けてヒノエはちょっと微妙な、しかしまんざらでもない微笑を見せた。マツバとしては自身の台詞に背筋で芋虫がはい回っているような心持ちである。

「それでアヤさんには...」

「さあて、とにかく明日以降ですわよ。」

 ピシャリと言い切られたがとにかく会えなくはないようだ。それならば、アヤから直接聞くのがいいだろう。

「ああ、そうですわ。最後にこれは私からの忠告なのですけれど。」

 諦めたヒノエが部屋を出ていく際にこそりと耳打ちされマツバの全身は粟立った。ヒノエの声が春風のように暖かったからかも知れない。

--あの子の持ってくる飲み物は飲まない方がいいですわよ。嘘だと思うなら試してみなさって。

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