第3話 細波

 格子窓から見える夜空には三日月がかかっている。マツバはアヤの入れてくれた白湯を飲みながら布団の上でここに来てからの数日間に思いを馳せていた。昨日までマツバは日夜布団の上でアヤに面倒を見られながら過ごしていた。少なからず気恥ずかしさや情けなさはあったがアヤと二人で居られることがただただ夢のようだった。ただ、時折何とも言えない不安感に襲われることもあったがそれさえアヤという存在にすべて溶かされていた。ただ、それも昨日までのことである。波が、騒ぐ。

「マツバ様、そろそろおやすみなさいますか?」

「ああ、ありがとうございます。」

 アヤは行灯あんどんの灯りを消すためにマツバの枕元に近寄った。行灯の扉を開けると中からは小さく燃える炎が現れ一部不自然に赤くなったアヤの手首を照らす。

「やはり、赤くなっていますね。」

 アヤの袖口を押さえるとアヤは手を止めた。今だついたままの灯りに照らされる柳眉は気まずそうに下げられている。

「申し訳ございません。昼はみっともないところをお見せしてしまいまして。」

「いえ、私こそ御迷惑をおかけして。」

 先程から思い出していた昼の光景。今日になってようやく歩き回れるようになったマツバは広い屋敷の中を歩いていた。延々と襖の続く長い廊下に四角く囲まれた内庭、時折すれ違う見目麗しい女性達。病み上がりとあって歩き続けるということはできなかったので休み休みではあったが、久々の自由を満喫していた。だが、次第にその不自然さに疑問を持つようになった。ここに男はいないのか? 時折女性を見かけることはあった。しかし、一向に男は見ない。それに、自分を見たときの彼女達の反応も引っ掛かった。ツチノコでも見つけたような視線を向けてきた人は目が合うと慌てて反らしたり、声をかけた人は足早に逃げていってしまったりまるで触れてはいけないもの扱いされているようで心が寒かった。そんななか一人向こうから声をかけてきた女性がいた。アヤではなく、先日あった華やかな女性を思い出す切れ長の目を輝かせたこれまた一級の美女。先日の女性ひとよりあどけなさの残る顔立ちに牡丹をあしらった橙色の着物がよく似合う。

「あら、こんなところまで歩いていらしたの?いけませんよ、病み上がり何ですからゆっくりされていないと。さあ、お部屋までお送りしますからね。」

 さあ、そういうと彼女はマツバの袖を引いて彼の来た道を歩きだした。いかんせん振り払うわけにも行かずされるがままに後をついていった。そして、貸し与えられている部屋まであと数部屋というところで湯気のたつお茶を持つアヤに出会った。

「あら、アヤ、こんにちは。さっき私の部屋の近くで貴女の旦那をお見かけしたからここまでお連れしたのよ。ねえ、せっかくだしちょっとお借りしても構わないわよね。」

「ヒノエ様、それは。」

「いいじゃない。ちょっとお話するだけよ。」

 怪訝な顔をするアヤにヒノエと呼ばれた彼女は余裕綽々の様子で、ねえ、と腕に腕を絡ませられ女性のやわな肉体のぬくもりが布越しに伝えられてきた。

「キノエ様に申し上げますよ。」

 アヤはマツバにくっつくヒノエに向かって眉をひそめてそう言った。

「なによ。言い付けようっていうの。いいじゃない貴女若いんだから。」

 ヒノエの腕に力が更に入り声に刺々しさが入り、これまでの人生でこのような修羅場に当たったことのないマツバは弱ってしまった。気持ち的にはアヤにあるのだが着物を隔ててすぐの誘惑がマツバを迷わせた。そこへ凛とした鈴のような声が助け船を出してきた。

「やれやれ、またお主か、ヒノエ。」

「キノエ様。」

 颯爽と現れたのは先日の神々しいとさえ言える光輝を持つ女性だった。するりとヒノエの腕がほどかれ少々の名残惜しさを感じた。

「はあ、ヒノエ、そなたも掟は知っておろう?」

 小さくうつむいたヒノエが頷く。

「悔しいのは分かるが大人しくしておれ。さもなくば、分かっておろうの?」

 鋭利な言葉にヒノエは俯いたままもう一度頷く。その顔色は心なしか青くなっているようだ。

「分かれば、よいのじゃ。」

 口元を隠して笑う。袖口で口元を隠してもその恐ろしいまでの雰囲気は何も隠れない。むしろ香りたつばかりだ。すっかり怯んだヒノエを見た後、アヤに何やら耳打ちをして彼女は去っていった。彼女が去った後ヒノエもまた足早にその場を後にした。その時、ヒノエがアヤにぶつかりアヤの持っていた湯飲みが床に落ちた。

「大丈夫ですか?」

 ヒノエは振り返らなかった。アヤの若緑の袖口と裾にお茶の染みが広がる。転がった湯飲みからはまだ湯気がたっていた。

 以上が今日の昼の出来事である。

「痛かったでしょう?」

 そのまま手を持っているとアヤからそろそろ離してくださいまし、と少し震えた声がかかった。慌てて見上げたアヤの顔は灯りのせいか少し赤みを帯びていた。

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