第2話 溺没

 マツバは目を覚ました。ひどく辺りがぼんやりとしておりどこに何があるのかうかがい知ることができない。ばたばたと手を動かしてみるとなにやら柔らかいものが指先に触れた。

「お目覚めでございますか?」

 綺麗な女の声だ。

「いろいろ混乱されているとは思いますがとにかく今は養生なさって。」

 それだけいうと女はマツバの傍らから立ち上がり足早に立ち去って行った。足音が聞こえなくなってマツバは意識を失う前の記憶を掘り起こそうと試みた。自分は、のだろうかと。確かに自分は海に落ちて溺れた。海水を吸った衣服が体に重くまとわりついてどれだけもがいても海上に浮き上がれなかった。死ぬんだ、そう確信したのにここはいったいどこであろうか。起き上がってみると唐突に頭に鈍器で殴られたような衝撃が走った。とっさに頭を押さえようとすると腕にも鋭い痛みが走る。

「…⁉」

「やれ、お目覚めか。ご客人。」

 痛みにしばしうずくまっていると先ほどとは違う張りのある声がかかった。痛みに耐えつつ何とか声の方を向いてみると艶やかな金とあかの着物を少し気崩した思わず生唾を飲み込んでしまいそうな美女がいた。射干玉ぬばたまの髪は結い上げられ紅いかんざしがわずかに揺れている。さらに、その肌は陶器のように滑らかで白く、その双眸は黒曜石のように輝き、紅く彩られた唇は新鮮な果実のようにみずみずしい。そして細く手折れそうな首筋をたどれば両の手にも収まりきらないだろうたわわな双丘が。これを眼福と言わずに何を言うのかというほどの麗しさにマツバはしばし痛みも忘れて見入っていた。彼女はマツバをその大きな瞳に収めた後、その花のかんばせににっこりと妖艶な笑みを浮かべた。

「これはこれはたいした美丈夫だ。少し痩せっぽちだが健康そうだし、いい拾い物をしたな、アヤ。」

 はい。消え入りそうな声で答えたのは彼女の後ろに控えていた女だった。うつむいているため顔は見えないが、ほっそりとしたなで肩に淡い桃の着物が柔らかい印象を与える。結わずにおろされたままの髪はしっとりと長く、膝の上で組まれた手は小さく柔らかそうだ。先の彼女を薔薇バラとするならさしずめ彼女は秋桜コスモスといったところだろうか。

「これ、お主名前はなんという?」

「…マツバといいます。」

「そうか。マツバか。良い名じゃの。ところでお主ここに来た経緯は覚えておるか?」

「…海で溺れたところまでは。」

「そうじゃの。そしてお主はここに流れ着いたのじゃ。大きな傷は見当たらんかったが傷も疲れもいろいろあろう。無事完治するまでは、そこのアヤをつけてやるからここで療養されるがよい。」

 それに応じてアヤと呼ばれた女は深く頭を下げた。

「アヤと申します。なんでもお申し付けください。」

 マツバも軽く頭を下げる。すると、再び全身に痛みが走り小さくうめく。それを見たアヤはマツバの側へ駆け寄り小さなガラスの小瓶に入った透明な液体を手渡した。

「マツバ様、こちらをお飲みくださいませ。痛み止めでございます。」

 マツバは受け取ってすぐさまそれを流し込んだ。透明なその薬は予想に反して少ししょっぱい味がした。

「少しは痛くなくなりましたか?」

 そんなすぐに効くわけがないだろうと小瓶を返すついでに言ってやろうかとアヤの顔を見た。とたん喉が変な音をたて、心臓が止まった。

「あの、大丈夫ですか?」

 初めての衝撃だった。身体中が心臓になったように震える。心配そうに下げられた眉尻には申し訳ないがこの震えは痛みによるものではない。

「大丈夫です。」

 絞り出した声も震わせないことは不可能だった。マツバ、17歳の夏、初めて一目で恋に落とされたのだった。 

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