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 菜緒が店のオーナーから与えられて住んでいるアパートの一室に、私が忍んで訪れるようになるまで、それほどの時間はかからなかった。どちらから言い出すわけでもなく、自然とそうなった。かつて身体の隅々まで見知った気安さのせいでもあっただろう。

 菜緒はまるで応えてくれない。私はいつも、息づく人形を抱いているような気分になる。これは昔からのことだ。幼かった私には、それは不満であったが、今では気に入っている。

 炭酸が抜けたコーラのような、気だるい夜明けだった。菜緒が退屈を紛らわせるように私の掌を触っていた。

「見えないけど、昔と全然違う手だってわかるね」

「どうやって」

「触り心地」

「どう違う」

「かたくなってる。男の人の手」

「お前の身体は変わらないな」

「そう?」

「昔も今も、声すら出さない」

「ごめんね」

「いや、いいよ。今はそれが好きだから」

「変なの」

 菜緒は笑みをこぼした。それから、思い巡るような顔つきになって、

「でも、昔と今じゃ菜緒も違うの」

「なにが」

「だって今はなんにも感じないもん」

「昔だってそうだったろ」

「昔は、馴れなくて、変な感じしたもん。でも今はなんにもない」

 菜緒はぼんやりと呟いた。

「誰とするのも、ずっとつまんないだけ」

 言葉のわりに、悲嘆にくれるようではなかった。ただただ退屈そうであった。

 私は、菜緒の肉体のかなしさを想った。溶けることをしらない初心な日々を過ぎて、その先に待っていたのが冷たい荒地だったとは、あまりに救いがない。少女から老人になってしまっては、女の幸福などないようなものだろう。

 菜緒が冗談っぽく言う。

「ほんとだったら、褒めてあげたいんだけど。うまくなったねって」

「成長なしだってばれなくてよかったよ」

「またまたゴケンソンを」

 彼女が揶揄うようにくすくす笑うので、私も笑ったが、冗談というわけでもなかった。

 私はかつて菜緒と交わったほかは、職業の女しか知らないのだった。数年間をともに過ごした、妻同然であった裕香とも、夜は欠如していた。愛情の関わらない相手にしか、私は触れられないのだ。だから、裕香が私へ裏切りを犯したのは、私のせいでもあっただろう。

 ふと裕香のことが思い出されて、私は胸に靄つくものをかきけすように、また菜緒に触れた。彼女は、私に身体を添わせながら、不思議そうに、言うのだった。

「なんで菜緒なんかとするの? 楽しくないでしょ?」

「どう言えばいいかな。楽しくはないけど……」

「けど?」

「救われる」

 それは、菜緒は私を愛さないという、さみしい安堵だった。愛はいつも、愛される私を、私に脅迫する。

 かつての私は、愛をしらない幼さで、菜緒に触れられたのであろう。今は菜緒が、堕ちきったむなしさのうちに、私を抱擁してくれる。愛なぞ、芽生えるよりもはやく、殺してくれる。

 私は菜緒に触れている瞬間にだけ、生きながらえる心地がするのだ。

「ふふ、よくわかんない」

 彼女の微笑みに、しかし私は、よろこびを見てとった。そのよろこびとは、私が享受するのと同じ快楽、決して愛されることのないという救済であった。

 菜緒の、いつも閉じられている白い瞼のあたりが、うれしそうにゆるんでいた。


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