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彼女と馴染みはじめの頃は、部屋に入るたびに、その匂いをかいで懐かしかった。匂いだけはかつてと違っていなくて、私は再会したばかりの頃はまだ、妙な言い方であるが、懐かしさが新鮮だった。
ある日、匂いでふと、思い出が蘇った。
菜緒の十四歳の誕生日に、私はプレゼントを渡した。クマのぬいぐるみに指輪を持たせて贈るという、今から思えば気恥ずかしいようなことを、愛情ではなくままごとのような好奇心から試みた。
私の遊びに付き合うふうに菜緒も喜んでいた。指輪よりもぬいぐるみを嬉しがった。彼女はその歳になっても、ぬいぐるみに生命を信じていた。
時折、二人で一緒にベッドに入っていると、菜緒は薄眼を開けて、枕のそばにあるぬいぐるみが動き出さないか見ていた。また、ある時にはぬいぐるみの頬をつまんで、
「本当は喋れるんでしょ」
と、馬鹿げた拷問をすることもあった。
私の贈ったぬいぐるみも、よく可愛がっていた。男の子から貰ったのはこのクマさんが初めてだと、彼女は言った。だからひとしお可愛がっていたのかもしれない。私に赤ちゃんのように抱かせることもあった。私が戯れのつもりで放り投げたりした時には、涙を溜めた眼でこちらを鋭く睨みつけた。
菜緒が今住んでいる部屋に、あのぬいぐるみはない。
まさかそれを悲しむわけもないが、私は出来心で、あのぬいぐるみをどうしたのか、菜緒に訊ねた。
ぬいぐるみには彼女の匂いが濃く滲んでいて、抱くたびに香った。だから私は菜緒の部屋の匂いから、ぬいぐるみの存在を思い出したわけだった。
「ああ、あのクマさん。あげちゃった」
菜緒はなんでもなさそうに言った。
私は、ぬいぐるみが他の人の手に渡ってしまったということよりも、菜緒がそのことを淡々と言うのに少し驚いた。少女の頃の宝物なぞ、それくらいにどうでもいいのだろうか。女の一般の性質なのか、菜緒の堕落のせいなのか。
「あげたって、誰に?」
「ええっと、誰だっけな……。あ、そうそう、お客さんの石本さんっていう人」
「客?」
それは意外な答えだった。
「なんで男があんなもん欲しがるんだ」
「ええっとね、石本さん小っちゃい女の子がいてね、誕生日だけどなにをあげていいかわかんないって言うから、あげたの」
「なんで?」
「なんでって、女の子ならぬいぐるみ好きでしょ?」
菜緒は言ってから、いたずらっぽい微笑を浮かべた。
「ごめんね、怒った?」
「いいや、まさか。ありがたいくらいだ」
「そう。よかった」
私の言葉は本心だった。ありがたいと思った。
私と菜緒とは、初恋、とはいえないかもしれぬが、少なくともそれに似た縁ではあったはずだ。その過去の匂いの染みついたぬいぐるみを、自分の身体を買いにきた男にあげてしまう菜緒を、私は崇拝するようでさえあった。
しかも、そのぬいぐるみがなにもしらない女の子の手に渡ると知りながら、菜緒には後ろめたさもないようである。罪のない残酷である。明るい虚無である。
私は、菜緒が盲目であるのをいいことに、彼女に向って静かに手を合わせた。そんなことはしらないで、彼女はどこか楽しげに言った。
「あのクマさん、昔の菜緒たちのエッチがとんなだったとか、女の子に喋っちゃうかな?」
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