第15話 束縛と愛情
六月に入って紫は残業が二十一時半から二十二時頃までになることが増えた。木田の業務が負担の上にこの春から野々村が神奈川中心に展開し始めている“ふれあい堂”という地域密着型のスーパーも担当になり、それに応じて更に紫の業務が増えた。
正直検一とのことは楽しかったが、いい思い出ででいい気がしてきた。
今紫は全てを捨ててロンドンに行くなんて勇気とてもない。
そして六月も二週目に入り、ひと月ぶりに浩輔と会うことになった。
その日は金曜日だったが、紫は二十三時近くまで会社にいた。
営業部のオフィスには紫以外誰もいなかった。
時計を見ると、二十二時四十八分。紫はPCの電源をオフにして自分のデスクの書類などを片付けていると、
「終わった?」
と浩輔が営業部のオフィスに入ってきた。
「・・・あ。浩く・・・、梨木課長お疲れ様です。今から出るとこです。」
紫は即座に言い直す。
浩輔が直接社内で訪ねてくること自体がほぼなかったので少し驚いた。
思わずホッとしてしまう。
「もう他のフロアもほぼ誰もいないよ。さっきざっと見たけど、二十階は君だけだったよ。」
浩輔も帰るためにバッグを持っていた。
「忙しいの?」
「はい・・・、産休にもうすぐ入る人がいるから。その人の分も負担することになったんです。」
紫はもしも誰か他の従業員が来た時を警戒して敬語を使用した。
「そうか・・・、あんまり頑張りすぎないようにな。」
「でも今が頑張り時だから・・・。」
「もう一台タクシー呼んだから俺は先に行ってる。」
浩輔はそう言うとさっと営業部を出て行った。
会社前連に停車しているタクシーに乗り込む。
そのままタクシーは六本木のいつものホテルに向かう。
ホテル前に停まると、紫はフロントにて自分の名前を言うようにメッセージがあったので浩輔の名前を告げる。
前日の木曜日に今日は宿泊するということを聞かれていたので、承諾してしまっていた。
だけど紫は今までのように気分が高揚していないことに気付いていた。
そして紫はあることを決断していた。
フロントにて部屋番号を聞くと、二十五階までエレベーターで登る。
いつもより階層が高いことに気付いた。
二五〇三号室のベルを鳴らすと、浩輔が扉を開けた。
「お疲れ。」
「うん・・・、どうしたの?こんな部屋。」
紫は室内に入り周りを見渡す。
いつもより断然部屋が広く、間取りも違う。
「まあ一応、スイートルームってやつだから。」
「え!?」
紫はスイートルームに入るなんて生まれて初めてだ。
「てゆっても一番リーズナブルなプランだよ。」
「・・・。」
紫は呆然とした。
「・・・どういうこと?」
「お前に喜んでほしくてさ。」
紫は何と言っていいかわからない感情にかられた。
「・・・この間のこと謝りたかったんだ。色々と。」
浩輔が言葉に対し紫はそれには答えず上着をハンガーに掛け、バッグをソファーに置く。
「メシまだなんだろ?好きなの頼めよ。俺は会社で済ませてきたから。」
紫は浩輔に促されて、さすがに二十三時まで残業していて空腹だったのでメニューのナイトメニューのうどんを頼んだ。
うどんを食べ終わると、その後スタッフが入ってきてシャンパンを持ってきてくれた。
時刻は午前一時前だった。
こんな風に特別にお姫様扱いして貰えるのはこの上なく嬉しい。
だけど・・・。
「浩くん・・・、来といて言うのもなんだけど・・・。こんな高い部屋気が引けるわ。」
窓際のテーブル席に二人は腰かけ、紫は注いで貰ったシャンパンを少し口にする。
「何でだよ。先月は出張続きで手当ても結構出たんだ。だからこれくらい別に痛手もない出費だよ。」
浩輔は何の悪びれもなく話す。
「・・・もうすぐ赤ちゃん産まれるんでしょ?それも三人目。お金もっとかかるじゃない。」
「金の心配ならいいよ。そんな細かいこと気にする必要ない。」
「・・・。」
紫は内心呆れていた。
そういうことじゃないよ・・・。
「・・・ごめん。あのね、私もうこの関係終わらせたいの。」
紫はハッキリと浩輔の目を見て言った。
「来てて言うのもヘンだけど、でも話す機会も他にないし・・・。」
「何でそうなるんだよ。」
浩輔は呆れたように言った。
「この間の事なら本当に悪かったって電話で言ったじゃないか。」
「・・・でももうあの時から考えてたの。終わらせるべきだって。」
「俺は嫌だ、紫とは離れたくない。」
「・・・奥さんもお子さんもいるのに?」
「それとこれとは別だから。どうしたんだよ、この間から様子が変だと思ったら。お前のためにこんなに色々と考えていい部屋まで用意したのに・・・。まだ不満なの?」
「そういうことじゃないの、浩くんちょっと価値観がついていけないよ。」
「どういうこと?」
「お金で愛を買えると思ってるとこ。」
「そんなこと思ってない。」
「思ってるよ。私にお金をかけて尽くせば私が離れないって思ってるとこあるもの・・・。私も甘えすぎちゃったから悪いんだけど。本当にごめんなさい。三人のパパになる人の愛人をこれからも続けるなんて私にはできない。ごめんなさい・・・。」
「・・・。」
浩輔は何も言わなかった。
「それに私好きな人がいるの・・・。」
紫は検一の存在を明かす。ついていくとは決心していないがとにかく口実を作らなければいけないと思った。
「え!?」
浩輔は明らかに動揺していた。
「だから私本当にこの関係終わらせる決心がついたの・・・。これ食事代。今日はタクシーで帰ろうと思って・・。」
紫は財布から五千円を取り出してテーブルに置いた。最初から今晩宿泊する気なんてなかった。
「・・・お願いだからそんなこと言わないでくれよ・・・。」
浩輔が近付いてきて紫を抱き締めてきた。
「・・・浩くん、ごめんっ・・・。本当に。三年の間楽しかったけど、でも私いつも奥さんや子供たちに後ろめたかった・・・。」
紫は浩輔を必死に振り払った。
「だからこれで終わりにしよう・・・。」
紫が言った途端、浩輔の様子がいつもと違うことに気付いた。
浩輔はうつむき加減で目を拭っていた。
・・・え!?泣いているの!?
紫は驚く。
「・・・お願いだよ、紫・・・。俺はお前なしじゃ生きていけないんだ。」
そう言って目を押さえている浩輔を見て紫は揺れた。
泣いていたとしてもそれはいつも紫で、浩輔が涙を見せたことはない。
「なっ、泣かないでよ!浩くん!泣かれたら私だってどうしていいかわからなくなるじゃない!」
紫は自分も気付けば涙が零れていた。
「こんなの本当は最初からダメだったのよ、だからもうこれで・・・、」
紫が言いかけた途端、浩輔が強引に紫を抱き寄せてきてそしてベッドに押し倒してきた。
「やっ・・・、何するの!」
そして強引に浩輔は自分の唇で紫の口を塞いできた。
「お願いだ、紫!俺から離れないでくれよ!」
「んんーっ、ちょっと痛いよ浩くん・・・!」
「俺はお前以上に愛した女他にいないんだ、本当に愛してるんだ!」
浩輔はそう言いながら、紫の洋服を強引に脱がし始めた。
「ちょっ・・・、何するの!?今日はそういうつもりで来たんじゃないの!」
紫は部屋に入ってしまった自分の軽薄さを恨んだ。必死に抵抗するもやはり男の力には勝てない。
紫はつい流されてしまい、そのまま行為に及んでしまった。
残業で疲労が溜まっていたのもあって、紫はそのまま翌朝十一時まで熟睡してしまった。
目が覚めると、浩輔が紫の頭を撫でてくれていた。
その時、ああやっぱり私にはこの人しかいないのかな、と思ってしまった。
紫は朝食も取る気になれず、そのまま浩輔を部屋に残して先に帰りたい旨を伝えた。
気まずい空気だったけれど、承諾してくれた。
紫は簡単にメイクをしてホテルを後にした。
・・・どうしよう・・・。
帰り道、ふと涙が滲んでしまう。
まさか浩輔がここまで強引なやり方をするなんて予測していなかったというのもある。
・・・別れられないの?このまま・・・。
紫はひとりで悩み苦しんだ。
誰にも言えない・・・、重たくて苦しくてでも心の底では愛しい感情。
紫はこれまで何人かと交際してきたが、関係が深かった彼氏は高校時代の祥吾と大学時代の亮一とそして今回の浩輔だった。
でも今回が一番深い感情な気がしていた。
もう密室での密会は避けなければいけないと思った。いやもう会わないべきなのだ。
・・・私こそ、こんなに愛した人いないよ・・・。
今回は流されてしまったが、紫はもう金輪際関わらないくらいの覚悟がないといけないと思った。
・・・検一くんについていく勇気なんてないけど、だけどだからって浩くんとこの関係続けてなんていけない・・・。
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