第13話 逃げられない日常

小百合から渡された野菜類を持って帰り、早速野菜炒めを作った。紫は五月病もままならず仕事に精を出していた。

密かに野々村が以前セクハラまがいな肩を揉んできた時に言われた、紫の評価を上長に話してくれているという言葉を信じていた。

新入社員は毎年恒例の合宿で六月まで戻ってこない。もしその時に誰か新人がここに配属され紫のポストに交代ができたら、兼ねてから希望だった企画か広報に行けるかも知れない。

それまでの辛抱だ。

そう言い聞かせた。

転職何てそう簡単じゃない。大体紫は営業アシスタントの仕事の方が長いので、もし転職するとしてもそちらの業務でないと採用してもらえないことがありありとわかっていた。

もし企画か広報に行くことが出来たら、念願だった海外出張も行けるのに。

紫はキハラに入社して以来、国内出張のみしか経験したことがない。せっかく大学時代はアメリカにもいたのだから、どうしても海外で市場を見てみたい気持ちがあった。

中国や東南アジアでもいいけど、やっぱり市場規模が大きいドイツに行ってみたいな。

なんて少し考えていた。

普段通り業務をしていると、新着メールが入る。

『梨木浩輔』

『篠宮さん お疲れ様です。申し訳ないけど春のプレビアキャンペーンで使用した販促物余ってたらいくつか持ってきてくれない? 企画部 梨木』

紫の部署で営業たちがスーパーに持って行ったポスターとマスコットの縫いぐるみが棚にいくつか置いてある。

紫はポップとマスコットの縫いぐるみ、そしてチラシをいくつか企画部に持って行った。

企画部のオフィスまでエレベーターを使って降りた。

「これさあ、川本!これだと先方が困るだろ!そうじゃなくって、メールの文は・・・・、」

ふと中に入ると少し遠目で、二十代後半の川本という後輩社員に指導する浩輔の姿が目に留まった。

・・・浩くん・・・。

二年前に今の役職に就いて、手いっぱいだとよく聞いている。

「すいません、梨木課長。これどうすればいいすかね?」

「これじゃ意図が伝わんないから、このワンセンテンスは無しで、で・・・、」

浩輔が話している最中に、

「すいません、販促物持ってきました。」

と紫が浩輔の目の前に立って言った。

「ああ、篠宮さん。ありがとう。そこに置いといて。」

と前の空いているデスクに目線をやって指示した。

「はい。」

紫はデスクに販促物を置きながら、浩輔の方に目をやった。

「えっ、これでいいんすか?」

川本が躊躇っているのに対して、

「いいんだよ、まあこの人あんま遠回しに言うと逆に要求がうるさいからさ。」

浩輔がPCを見ながら軽く指示している。

「えっ、超シンプルすけど!」

「いいのいいのっ。」

「課長、大胆っすね~。」

そう言って二人が談笑しているのを目にする。

・・・浩くん・・・。

凄いな、と紫は率直に感じた。

・・・あんなに忙しいのに、部下に全然怒鳴ったり乱暴に指示したりしない。あんな冗談まで言っちゃって・・・。

紫は胸が痛かった。

・・・やっぱり私あの人の事が好きなのかな・・・。

紫は部屋を後にして思う。

「篠宮さん。在庫管理の業務なんだけどね、悪いけど木田さんの分も引き継いでくれない?」

営業部に戻った途端に紫は高木に言いつけられる。

「え・・・。」

呆然とする紫に、

「ほらだって彼女産休にもうすぐ入るでしょ。それまでに引継ぎの時間設けて業務聞いててくれない?」

高木は事務的に自分のPCを入力しながら話す。

「・・・彼にはムリでしょ?」

そう小声で自分の正面の席に座って工場からの電話対応を必死にしている吉原に目をやってこっそり言う。

・・・そんな。春の新製品があってホントに余裕なんて全くなくてやっと波が収まったと思ったのに。それに吉原さんの仕事も彼じゃ処理速度が遅いから、私がシステムの機能も覚えて負担もしたのに・・・。

「悪いんだけどね、私も今の業務手いっぱいなのよ。彼女の納期調整の業務は私が請け負うことになったから。」

高木の言葉に嘘がないことはわかっている。しかし紫は木田の仕事をどうしても引き継ぐ気になれない。

・・・あんな根も葉もない噂流されて誰が引き受けてやりたいと思うのよ・・・。

紫はそう言いたい気持ちでいっぱいだった。

「あとは彼女が本格的に休む七月までに個人的に話しつけといてね。何か不都合があるようなら私まで言って。」

高木は尚もPCに釘付けの状態で言い放つ。

「わかりました・・・。」

紫は後日、時間を取って木田から引き継ぎ業務を受けた。

引き継いでいてわかったのだが、木田は業務に関してのスキルが凄く低い。というより責任感というものが感じられなかった。何点か不明点を聞き返してもその場凌ぎのような返答をされた。

「ごめんねえ、篠宮ちゃん。私が休むことになって。」

そう申し訳なさそうに詫びる瞳には微塵に罪悪感なんて垣間見られなかった。

その間も際限なく野々村から勿論のこと毎度ダメ出しをされ続けていた。

理不尽な事を言っている時もあるが、筋も通っている指導もあるので反論もできない。

それにこの鎖ももうすぐ解き放たれるかも知れないのだ。

野々村はあれからセクハラ行為はしてこない。過去二度のことは水に流すと決めた。

ふと妹の緑のことを思い出した。

「お姉ちゃんが羨ましいなあ、オフィスワークで座りっぱなしじゃん。」

緑の勤めているサロンはチェーンのヘアサロンでなく、完全に地元密着型の店だ。席も五席しかなく、従業員も全員合わせて八人しかいないと話していた。

それに夏美や比奈のことも思い出す。

「東京のお洒落なオフィスで働く紫が羨ましい。ボーナスもいいんでしょ。」

紫は女子トイレの個室で、ふいに涙が零れた。

・・・あなたたちの方がよっぽどいいわよ!

トイレットペーパーで目の下を軽く押さえる。

紫の卒業した涼慶大学の国際関係学部は二千人の受験者のうち六百人が合格の倍率三・五倍の難関だった。センター利用では点数が足りなく一般で臨んだ。ファミレスのアルバイトも高校二年の秋には辞め冬から翌年の同時期まで学校がある日は十時間、休日は十三時間ほど塾の自習室に籠ってひたすら受験勉強した。

入ってからも一年から二年までみっちり課題とレポートの連続だった。

紫の学部の何人かは外務省に就職した者やNPO法人に行った者もいる。

学部内では完全に置いて行かれていた。

それに在学中の生活費は母に支援してもらっていた。でもやはりそれだけでは足りず、カフェや塾講師のアルバイトをした。それでも親しくなった友人に誘われて銀座のクラブで三か月ほど働いたこともある。

そこで完全に紫は自分がどれだけ井の中の蛙か思い知った。

来るお客さんは皆お金持ちの会社経営者や社長ばかりで、機転の利かなさにママに叱られた。

ファミレスやカフェで培った接客だけではどうにもならなかった。

キハラに入るまで、三十社エントリーした。ここは大本命ではなかったが、それでもかなり就活には気合を入れた。筆記試験と更に面接が五回もあり、それに突破した。

総合職の女性は総じて割合が男性よりやや少な目だ。

工場や支店に配属された同期のうち約半数が辞めた。

本社はまだ能勢が整っているが、支店や工場は労働規則なんてないに等しい所がある。工場に関しては、違法労働スレスレの所がありセクハラパワハラが度を越して酷い。

紫と同期入社の畑野香織という名古屋支店の商品管理部にいた女子社員がいた。紫と研修の班が一緒だったので、その後も何度か連絡を取り合っていたのだが、一年経った頃職場環境の悪さに耐えられずに退職してしまった。その後転職活動を試みるもやはり一年というキャリアでは厳しく、正社員の仕事にありつけなかった。後に何とか派遣社員という雇用形態で職にありつけたが、それも一年経たずに寿退社という形で仕事を辞め現在は主婦という道を選んだ。

紫も結婚式に参加し、心から祝福したが正直内心勿体ないと感じていた。

香織は紫と同じくやや紫の大学よりランクは下がるがそれでも名が通った関東の私立大学卒業後にキハラの本部に採用されたのだ。

現在は二歳になる娘を育てて育児に専念している彼女の現状はインスタグラムを通じて知っている。

・・・私は香織みたいに主婦業に専念できないな・・・。

紫はずっと思っていた。

全部捨てることになる・・・、今までの努力、過程・・・。それにママやおじいちゃんたちに申し訳ないわ。生活費負担してもらったのに。

紫は何度か浩輔にこう言った相談をしていた。

彼はいつでも応援してくれた。

「紫は頑張り屋だからさ、きっと成果出せると思うよ。」

そんな風に言われて、泣いてしまったこともある。

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