第8話 涙の熱海
あれから毎日のように検一とラインのやり取りをした。些細なことだがお互いフルタイムで仕事をしていることもあって、一日数回のやり取りだがそれでも楽しかった。
仕事は相変わらず、野々村から怒号をあげられる日々だがあれ以来セクハラまがいなことはしてこない。
紫は酒の勢いだと言い聞かせて、仕事に専念した。
しかし思うように上手く事は運ばなかった。
二月末。ついに浩輔と旅行の約束の日を迎えた。
紫は新幹線で夕方熱海到着の便に乗った。
携帯に送ってもらった旅館の情報をタクシーの運転手に告げ、現地に到着した。
浩輔は事前にとっておいたビジネスホテルに前泊していた。
旅館で落ち合って、客室に荷物を運んでもらうとすぐに抱き締め合った。
「出張お疲れ様・・・。」
紫はそう労った。
客室に懐石料理を運んでもらうプランだった。料理はどれも美味しくて近海の魚介類と季節の野菜を使った京風懐石料理だ。
「これおいしいね~!」
紫は幸せいっぱいの気分で白身魚を味わう。
その後部屋に露天風呂がついているものを選んだので、勿論一緒に入浴した。
その後、浴衣に着替えて沢山愛し合った。
紫はこの上なく満たされた。
検一からのメッセージは着信が来てもその日、確認さえしなかった。
「ねえ浩くん・・・、明日何処か行きたい。」
紫は布団の中で浩輔にぴったりくっついて甘えた。
「・・・何処かって何処?」
「・・・何処でもいい。二人きりでデートしたい。」
「そんなのダメだよ、紫はもっと聞き分けがいいコかと思ってたよ。」
「・・・旅行でもダメなの?」
「だから静岡には支店があって、俺のこと知ってる人間が住んでるから何処で・・・、」
「そんなのわかってるよ。わかってるけど、我儘言ってるの!」
紫は浩輔の言葉を遮って声を荒げた。
「・・・わかった、じゃあ明日朝早く起きれる?」
浩輔は暫く間を置いて言った。
現在時刻は午前一時前だ。
「うん・・・、何時くらい?」
「そうだな、さすがに六時じゃ眠くて動けないと思うから七時きっかりなんてどう?」
「何処行くの?」
「熱海のビーチだよ。冬の海は寒いけどそれでもいいなら、さすがに朝の時間帯にビーチは遭遇率がないに等しいと思うし。」
「え、本当に!?二人で歩けるの?」
「勿論そのつもりだけど。」
「じゃあうんとあったかくして着込んで行く!カイロも持ってきたの。」
そうして二人はキスしてすぐに眠りについた。
翌朝眠い体を起こし、七時に二人は起床した。簡単に身支度を済ませ、紫は薄化粧をしてコートを羽織って、カイロを持った。ビーチまで旅館から徒歩五分ほどだった。
「わあっ、寒い!」
紫は冬の潮風を直に感じる。
やっとこうして浩輔と手を繋いで人目を憚らずに歩ける。
紫は嬉しくて堪らなかった。
天気は快晴で、冬の海は水面が朝日を受けてキラキラと光っていてとても幻想的で綺麗だった。
二人は殆ど人がいない浜辺を歩いた。
「ねえ、こんな風に他の場所にも行けたらいいと思わない?」
紫は喜んでつい聞いてしまう。
「んー・・・、そうだな。」
「思うの?」
「・・・。」
浩輔はそれには答えない。
「ねえってば。」
「思わないことはないけど・・・、」
「けど何?」
「難しいかな。」
その返事にどれだけ傷ついたか。
「・・・じゃあやっぱり今まで通り?」
「そういう暗黙のルールだろ。」
「・・・。」
浩輔の冷静な回答に紫は思わず涙が溢れた。
「何で今泣くんだよ、折角お前が二人で何処か行きたいって言うから実現したのに。」
浩輔は半ば呆れる。
「ううん・・・。」
紫は上手く言葉に出せずに海を見つめた。
「いいからもう泣くなよ。」
「うん・・・。」
そういうと浩輔は軽く紫にキスした。
余計に切なくて悲しかった。
午前八時になり、二人は旅館に戻って紫だけ朝食をレストランで取った。慎重な浩輔は朝風呂をすると言って紫とは別行動をとった。
「きゃーっ、ママあ。お兄ちゃんが彩のお人形さん盗ったの~!」
その時バタバタと走り回る四歳児ほどの女の子が紫の横を通り過ぎた。
「こらっ、翔ちゃん!彩にそれ返しなさい。もう大人しくして!」
走った先に彩と呼ばれる娘は母親に抱き着いて、抱っこされている。
「いいじゃん、こいつうるせえもん。」
その後ろから人形を持った少年が現れる。
「翔ちゃんいいから卵焼きとサラダ適当にお皿に取ってきて。ママたち先にテーブルいるから。」
「はあい。」
お兄ちゃんらしき七歳ほどの少年は膨れてバイキングの方に歩いていく。
その様子を紫は目にして、思わずはあっとため息をつく。
・・・私結婚して家族持てるのかな・・・。
それが一番の悩みだ。
その後紫も朝風呂に入るために部屋の露天風呂に入った。
丁度入れ違いで浩輔は朝食を取りに行った。
そしてチェックアウトの十一時。
直前にもう一度行為をした後二人はタクシーに乗り込む。
熱海支店の同僚と昼飯食うことになってるから途中で降りるよ、と浩輔タクシーの中で途中新幹線のチケットと一緒に一万円を渡された。
「これで折角なんだし、熱海観光でもしてこいよ。」
「ひとりで?どこ行けばいいの?」
紫は困ったように笑った。
「色々あるだろ、熱海城とか美術館とか・・・。」
「ねえもう少し一緒に居れないの?」
「ごめん、同僚と約束してるし。それに夕方には自宅に帰りたいんだ。」
「明日何か予定があるの?」
「・・・ごめん、本当に。」
「ねえ本当は明日の日曜予定があるんでしょ?」
紫は珍しく催促した。
「どうしたんだよ、今日は。悪いけど早目に帰らなきゃいけない。」
「何?教えて。」
「・・・しつこいな。」
「ごめん、でも知りたいの・・・。」
紫は浩輔の腕を軽く揺すった。
「明日は家族皆で少し遠出することになってる。それでうちのお袋も連れて行くから実家の横浜への迎えがあるから。」
「・・・。」
そこまで聞くと紫は悲しくなり、思わず涙が零れた。
「本当にどうしたの泣いたりなんかして、今朝といい今といい・・・。面倒な事は嫌いだから勘弁してよ。」
「うっ、うう・・・。」
そう言われ余計に紫は堪えていたものが溢れ出した。
「ちゃんと紫の事は好きで大事だから。だから機嫌直してくれよ。」
「うん・・・。」
「あ、運転手さん。そこで停めてください。じゃあ俺はここで降りるから。ちゃんと家に帰るんだよ。」
そう浩輔に告げられて、泣き顔にキスされて下車してしまった。
「うっ、うっ・・・!」
紫は尚もまだ涙が溢れてきた。
「・・・お客さん、これ使っていいですよ。」
様子を窺っていた運転手の五十代らしき男性がタクシーの宣伝用のポケットティッシュをくれた。
「・・・ありがとうございます・・・。」
「・・・別れた方がいいですよ、家庭がある人とは。」
「・・・え?」
紫は涙をティッシュで拭きながら急に話しかけられて驚いた。
「・・・男っていうものは基本家庭が大事で平和主義ですから・・・。」
「・・・。」
紫はそれには答える気になれずひたすら涙を拭いた。
紫は熱海のロープウェーの近くの場所を告げて、そこで下車した。
ひとりきりでロープウェーに乗った。中で取れた化粧を直した。
窓から見る熱海の景色は快晴で綺麗だった。
紫は降りたついでに近隣の観光地で有名な熱海城と秘宝館を回った。秘宝館は如何わしかったがユーモラスもあってくだらなかったがひとりでそれなりに楽しんだ。その後熱海城の展望台に上って、帰りは近くの新しくオープンしたという古民家カフェに寄った。そこには何組も家族連れの団体客が入店して、店内が騒がしかった。
紫は持ってきた音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンを耳にはめるといつも聴いている洋楽メドレーが流れ出した。
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