第6話 水面下

翌日の金曜日。

紫は浩輔と会う約束をしていた。

場所はいつも使用している高六本木のホテルのバーで窓に向かってカップルシートが設置されており、外からは殆どわからない。

紫たちはいつもの如く現地のバーの席で待ち合わせだ。

紫が店員に梨木の名前を告げると、案内された。予想通り一番東側の端の席に既に座っていた。

「お疲れ様・・・。」

「ああ、お疲れ。」

紫はげんなりしていた。一切の事をまだ浩輔に打ち明けていない。

適当にパスタ類をオーダーして、お酒も飲みたくない気分だったのでジンジャーエールにした。

「・・・どうしたの。紫がアルコール控えてるなんて珍しいじゃん。」

「・・・実は・・・。社内で・・・、セクハラっぽいことされて。」

紫は早速打ち明けた。

そして事の経緯を話す。

「野々村ってアイツか・・・。俺の同期が昔後輩で何となく知ってるけど。」

「・・・ねえ、これって問題にしない方がいい?高木さんからは労力が勿体ないって・・・。」

「・・・。」

浩輔は暫く黙って、

「不快だったんならコンプラの窓口に言ってみてもいいと思うけど。すぐには異動だとか問題にはならないし、それに直接本人にも確認されるだろうし。そうなったら暫くは紫が仕事しにくくなるかもな・・・。直接の先輩なんだろ?」

「そうなの・・・。それで前より接しにくくなるのがコワくて。」

「アイツかなり社内での評価いい奴なはずだ、そんな事したってことも今まで聞いたことないしな。」

「そうなの・・・、だから余計に驚いて。」

紫はろくに食事に手が付けられない。

「本当はもうそれ以外の理由でも異動したいの山々だけど・・・。異動願いってそう簡単に受理されないし。」

それに今の部署は営業職以外のアシスタントの社員は派遣社員も含めほぼ紫より年齢層が上の女性事務員が多い。そしていずれも独身。

「オーバーって思われるよね?高木さんからははっきりとそう言われたし。」

大抵三十過ぎての独身の女性社員というものは、必要以上に男性社員を意識している。

「確かに軽いっちゃ軽いけど・・・。完全に襲われたってわけじゃないし。」

はあっと紫はため息をつく。

「・・・次何かされた時っていうのもヘンだけど、それがあった時に行動を起こすとかは?」

浩輔から提案された。

「え・・・?」

「今回のって突然で今までそういう素振りもなかったし、酒も回ってたってこともあって今公にしてすぐに異動って決定何て絶対にならないし。あんまり日常的にエスカレートするんなら本当に言った方がいいと思うけど。」

「浩くん・・・。」

「そりゃ俺だって紫にそんなことした奴今すぐにでも殴りたいけどさ・・・、そうはいかないじゃん。ここに残りたければ。」

「うん・・・。」

紫は涙目になる。

「ありがとう。」

その時にさっと頭を撫でられて嬉しかった。外で絶対にこういうことしない人だ。ほぼ漏洩対策だけど。

二十三時半になり、

「じゃあ今日はこの辺で解散しよう。」

と言われる。

「・・・うん。今日はありがとう。」

「また部屋かホテルでじっくり話そう。」

「うん。今度旅行にも行くし。」

「これ。」

タクシー代の五千円を渡される。いつも電車で帰れる時間帯だし、いいと言っているのに必ず渡される。

そして紫はいつもの如く店員を呼びつけコートを受け取って店を後にし、ホテル前のタクシーロータリーでスタッフに案内されタクシーに乗り込む。こんな単独行動にもう慣れてしまった。恐らくこの十分後ほどに浩輔は出てくる。



ねえ、紫・・・。あたしやっぱ城崎君とはダメかなあ?何かねえ社交辞令っぽいラインしか来ないの。しかも三日前から未読無視ってやつでさあ。」

明くる週の火曜日。彩絵がまたランチに誘ってきたので、今度はパスタ屋でその話を聞かされる。

・・・こいつ何て呑気なの。

そう思わざるを得ない。

「あーっもう。上手くいかなーい。あたしここ四年彼氏いないって紫知ってたっけ?でさ、里佳子のヤツ牧野さんと付き合い始めたらしいよ~。しんっじられない。」

「えっ。そうなの?」

あのイケてない先輩社員のことを朧気に思い出した。

「なーんか羽振りもいいし、セーカクもいいんだってさ。もうエッチしたって聞いた。しんっじられない、あたし絶対お金払って貰ってでもやだわ。」

彩絵は好き放題言う。

里佳子こと橘田里佳子は紫たちの同期で彩絵がよく合コンに同席させたり、たまにご飯会の時にも連れてきたりする。新人研修の班が一緒だったので仲良くなった。

中学から大学まで彩絵とはまた違うが女子校育ちで、いかにも控えめな印象の子だった。あまり相手には高望みせず、確かひとりしか付き合ったことがないと言っていたはずだ。ここ一年くらい学生時代からの長年の彼氏と別れたことをキッカケに彩絵が連れてくるようになった。

「だいったい里佳子の元彼も超冴えない男でさあ、ほんっと。どこがいいの?って感じだったんだもん。けどさあ、あの子ってあんまルックス見ないじゃん?中身とか経歴とかっていうの?まあ大前提にそれも大事なんだけどね・・・、どーしてもエッチできないじゃん。そんな男だと。」

「まあ人それぞれってやつじゃん。千差万別だよ。」

「はーでも!あたしは城崎君がいいのっ!」

そう彩絵がうだうだ言っている最中に、新着メッセージの通知が光った。

紫がスマホの画面を人差し指でタップすると、KENICHIというニックネームの男からメッセージが来ていた。

『久しぶり。元気にしてた?先日有楽町の飲み会で会った城崎検一です。仕事で出張続きだった。ところで今週末あいてる?』

・・・え、これって城崎君だよね!?

紫は察した。確かもう一か月近く前になるはずだけど、連絡が来たのは久々だ。

どうしようか迷ったが、いい加減浩輔との不倫関係に清算をつけたかった。

久々に現れた好みのタイプだ。

彩絵には悪いが、

『もちろん覚えてるよ。先日はご馳走様^^♪ 今週末はあいてるよ』

と即座に返事を打ってしまった。

「ねえ、紫イ。ところでね。来週の水曜またコンパあるんだけど行かない~?里佳子いなくなったし欠員気味なんだよねえ。紫んとこの部署ってオバサンばっかで誘いづらいし。誰か一緒に行ってくれる子いないかなあ。」

「ごっめん、水曜は遅くまで業務改善のミーティングが入ってて。」

それは本当だが十八時には終わる。

「えーっ。もう誰誘おっかなあ。今度はね、美香のツテで商社マンなんだけどね。でも非上場なんだよね。丸日繊維となんだけど、メンツが五:五でしたいって・・・、」

彩絵が何やら不満を言っていたが紫の耳には何も入ってこなかった。


その週の木曜日のことだった。

「なあ、篠宮。今時間あるか?」

野々村がまた席の背後で呼びつけてきた。

「え、あっ、はい!」

紫は野々村とあれ以来業務以外の会話は一切していない。

「じゃあBミーティングルームでな。十五分押さえたから。」

「は、はい・・・。」

紫はメモとペンを持っていく。

・・・何でまた個室なの?

紫は疑問を拭えない。

「あ~、篠宮ちゃん。またお呼び出し?」

吉原が横やりを入れてきたが無視した。

Bミーティングルームに入ると既に野々村が着席しており、持ってきたノートPCを広げて言い放った。

「あのなあ、先週のスター蒲田店に新商品の発注業務頼んだよな?」

「は、はい。」

紫は覚えていた。確かこの冬オープンしたばかりの新店舗で、かなりの発注をした。

「で、プレミアムビアが二十カートン希望で四十届いたんだってよ。」

「え!?」

紫は思わず耳を疑った。

「え、じゃねーよ!これお前の発注履歴。よく見てみろよ、何でこの数注文したんだよ。」

ノートPCの画面を見せつけられる。

すると発注書のPDFには間違いなくプレミアムビアが四十という数字が打たれていた。

「お前なあ、こんな新人みたいなミスしやがって。二十も多くトラックから搬入されて、店長さんびびってすぐうちに電話来たわ。小さい店だしな。お宅の注文担当どうなってんだってさ。」

普段の発注業務は紫のグループにいる三好紀子というパート従業員に任せているのだが新店舗の発注だけは確認のため紫が処理することになっていた。

「たくそんで今日午前中、蒲田のスターまで笹野と行ってきて店長とグロッサリー担当者に頭下げてきたよ!ついでに、横浜の工場のリーダーにも詫びの電話入れてきた。明日送り返してもらえることになったけどさ!」

そう言い捨てられる。

「お前・・・仕事ナメてんの?」

威嚇したような眼差しで睨まれる。

・・・どうしよう・・・。

あの時は確か“あの”事件の直後であまり仕事に身が入っていなかった。

こんな事初めてだ。

「こないだちょっとメシ連れてった途端これだよ。だからダメなんだよな、こういう気持ちでいられると。」

その時正面の席にいた野々村が席を立ち紫の横に歩いてきた。

「おい。」

紫は見上げる。

「お前の肩代わり誰がしたと思ってんだよ。俺と新人の笹野にまで尻拭かせやがって。」

その時野々村の手が紫の髪に触れて、

「人の目ちゃんと見ろよ。」

と後ろ髪を軽く引っ張られた。

「!?」

思わず目をつぶる。

「何嫌そうな顔してんだよ。てめえ自分でやったことわかってねーのかよ。お前のせいでこっちは午前の客先訪問断ってんだよ!」

「も、申し訳ございません・・・。」

「すいませんで済めば終わりかよ。ほんと企画から来たってプライドか何か知らねーけど、お前抜かりすぎじゃねーの。まじで今度やったら俺のアシ外すからな。笹野にもわりーわ!」

そう言い捨てて野々村は会議室を後にした。

「・・・。」

目から涙が滲んだ。

ミスしたことよりも、恐怖心の方が勝った。

・・・誰のせいで!誰のせいだと思ってるの?!

怒りと悔しさで胸がいっぱいだった。

会議室から出てオフィスに戻ると、木田が野々村に何やら言づけている。

「ねえ、野々村君。最近篠宮ちゃんにキツいでしょ?さっきもまた呼び出してたんでしょ?」

と心配を装っている。

「いいんですよ、あいつはあれくらいで!この仕事ナメすぎだから。たく総合職で入ってきてプライドか知らねーけど、ナメすぎなんですよ。」

「そーお?お手柔らかにね。」

そう木田が告げる。

「篠宮ちゃん、またいつでも話なら聞くからね。」

木田が心配した素振りで紫のところにやって来た。紫は目が赤いので見られたくなかった。

この女・・・!

紫は一種の殺意を覚える。

自分は心配してあげている感。それで“そんな落ち込んでいる後輩にも優しくできるワタシ”の優越感を味わっているのだ。

本来ならほっておいてくれてもいいのに。どうせ何も変わりなんてしないのだ。

「はい・・・、また折り入ってお話しさせていただきますね。」

そう愛想だけの返事を笑顔で返す。



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