第5話 理不尽

それから数日経った月末の水曜だった。

「なあ篠宮、ちょっと時間ある?」

席の後ろに野々村が立ちはだかっていた。

「は、はい!」

紫は慌てて椅子を立つ。

「Dミーティングルームにいるから。」

それだけ言うと、立ち去られる。

紫はメモとボールペンを持って急いで駆け付けた。

ノックしてDミーティングルームに入る。

「失礼します。」

「いいから座れよ。」

相変わらず野々村は不愛想だ。

「あのさあ、オフィスで言うのもわりーと思ってここで言わせてもらうけど・・・、」

うわ、来た・・・!

紫は嫌な予感が的中する。

「こないだのこの、笹野がスター銀座店に行った時のレポート読んでの所感や修正をお願いしたよな?」

スターとはスタースーパーのことで、全国店舗展開している大型チェーンスーパーだ。

そして笹野は新人で野々村の直接の後輩にあたる。笹野もどちらかというと体育会系であるが、あまりレポートや文章を書くことが得意でない。

「俺も笹野に散々注意したけどさ。お前一応俺のアシスタントなんだから笹野のアシスタントでもあるんだぜ?その自覚ある?」

「・・・あ、あります。」

紫は何とか返事する。

「じゃさ、何だよ。この超大雑把な感想は?わりーけど、これじゃ新人よりひでーわ。」

・・・グサッと来る言葉を歯に衣着せずに言われる。

「お前さー、一応商品企画にいたんだろ?ならさもーちょっとマシなこと書けねーの?納期管理するだけがお前の仕事じゃねーだろ??」

「はい・・・。」

「笹野が箇条書きにして書いてたり書いてなかったとことかさ、そういうどうだっていいことは端折ってもいんだよ。要は内容!既存顧客だけじゃなくて新規顧客掴まなきゃいけねーっつ時にこんな幼稚園児みたいな訂正いれられても時間のムダだわ。」

「すいません・・・。」

「ここ来て何年だよ。笹野も呼ぶけど・・・、わりーけど今日付き合えよ。」

ええっ、飲みの席でもお説教!?

紫は内心ため息しか出なかった。

もういい加減にしてよ・・・、大体何でアシスタントの紫が営業の新人君のお世話までしなきゃいけないの?在庫管理だけで結構大変なんだけど。電話も山ほど掛かってくるのに・・・。

席に戻ると、

「まーたやられてたの?野々ちゃんに。」

隣の席から吉原が楽しそうに言う。

「・・・。」

紫はそれには答えない。

「まあ野々ちゃんもイライラしてんじゃないの?今大手二店舗任されてるし・・・、数字との戦いだしねえ。営業君ってさあ。」

その営業から外されたのはどこのどいつよ!?

そう言いたい言葉をぐっと飲み込んだ。

アンタは十年前に成績不評で営業からアシスタントに回されて、でもろくに事務処理もできないから最小限の仕事しか与えられてないのに文句ばっか垂れてんでしょうが!

「で、篠宮ちゃん。コーヒー淹れてもらえる?」

「・・・はい。」

紫は目も合わせず席をさっと立った。

ピッ!と乱暴にコーヒーサーバーのボタンを押す。

あたしはお前の秘書じゃないんだよ!歴代の新人にも頼んできたらしいけど、何なの?昭和じゃあるまいし、これくらい自分で淹れろっつの!

感情を抑えきれない。

「篠宮ちゃん、大丈夫?」

その時後ろから声がした。

「えっ、あ、はい!」

紫ははっと振り返る。

見ると、妊婦姿の木田由紀が心配そうな顔つきで見ていた。

妊娠五か月。安定期に入ったばかりだという。大手あるあるの福利厚生を駆使して、産休を与えられる臨月間際まで働かせて貰うというコースだ。

木田のグループとは違うものの、紫の八歳先輩の三十五歳。同じ営業アシスタントだということもあって時々声を掛けてもらっていた。

いつもニコニコ癒し系の笑顔で少しふっくらした体型も相まって周囲を和ませる癒し系キャラだ。

「野々村君もホラ・・・、お子さん二歳になってイヤイヤ気じゃない?だから奥さんも大変みたいで・・・、家に行っても休まらないのよ。きっと。」

木田は困ったように慰める。

この人は子供の事しか興味ないのかと聞きたくなる。

「いえいえ、私の能力不足なので・・・。野々村さんがどうとかそういうのではないです。」

悪口は厳禁だ。

この人こう見えて油断ならないから。どこでどう伝わるかわからない。

「そーお?あんまり無理しないでね、篠宮ちゃん。最近残業も結構してるんでしょ?」

「九時前には帰ってますので・・・。」

「また赤ちゃん産まれたらお茶がてら家に遊びに来て沢山話しましょ。」

そう癒し系の笑顔で言われた。

木田は、悪気はないがかなり噂が好きで色んな人とのネットワークを持っていてあちこちに新しいネタを吹聴している。

ついでにそのお腹も今の紫には目障りだ。

それに木田は同じ在庫管理の業務をしており、新人からずっといるはずなのに明らかに紫より業務量が少ない。

それも相まってあまり今は関わる気がしなかった。

その晩。野々村が指定したのは新橋の焼鳥屋だ。

駆け付け一杯で紫たち三人は生ジョッキをオーダーされる。

・・・勘弁してよ、このド平日に。明日木曜で一番電話やメールの問い合わせがくる率高いのに、こんながっつり。

金曜は紫の担当のYoYoというこちらもチェーン店のフライデーセールで毎週決まっての特売日がある。その分前日に在庫の確認を取られることが多い。

がやがやした店内に紫たち三人がテーブル席に着き、乾杯をすると、

「まあいい。お前ら、今日は飲め!ここは俺が持つから。」

と野々村は威勢よく言い放った。

紫たちは遠慮がちに焼き鳥類をオーダーした。

「お前らなー、営業の基本のキってやつがねんだよな。ほんと。」

「すいません、ほんと・・・。」

笹野は紫以上に緊張しているに違いない。入社してまだ一年になろうとしてる頃なのだ。

野々村はそんな笹野をよそにガサツにねぎまや砂ズリを齧る。

・・・こういうガサツな人苦手・・・。

野々村とはここ一年半で何度か飲み会の席で一緒になったが、なるべく隣にはならないようにしていた。

「でなっ、笹野。お前に教えといてやるけど、営業っつうのは数字と結果。それで括れるんだよ!それ以上でもそれ以下でもないからな。」

「は、はい・・・。」

「客先との信頼関係が全て!だからメンツ潰さねーよう振る舞うしかねーんだよ。潰したら吉原のおっさんみたいになっちまうぞ!?」

「自分はまだまだですね・・・。」

「あのなー、営業の仕事っつうのは・・・、」

野々村が持論を語らっている間、笹野はひたすら控えめにビールを飲み、ずっと相槌を打っていた。

・・・可哀想・・・、こんな筋肉バカみたいな男に説教垂れられて。

紫は内心野々村を見下していた。

確かに理にかなっていることは多いが、どうしても物言いが生理的に受け付けない。

数倍浩輔の方がいい男だ。

紫がふと考えていると、

「おい、篠宮。お前も聞いてんのか!」

「えっ、あ、はい!」

急にさされる。

「お前もなあ、もう少し遣り甲斐ってもんを持てよな!イヤイヤじゃ仕事はつとまんねーぞ。そりゃ企画からの異動じゃ面白さは感じにくいのかもしれねーけどさ。」

「いえ・・・そんなことは。現場の動向を直に見れるので日々勉強になってます。」

紫は当り障りのない返答をしておく。

「けどなあ、これでもお前最初の頃より大分成長したんだぞ。なあ笹野。教えといてやるわ。篠宮って今、こんな涼しい顔してるけど最初の頃なんて発注ミスしまくってたんだぞ。」

と紫の失敗を笑い話にされる。

・・・あれは企画からの異動でショックが大きかったからよ。あんな仕事、絶対ミスするようなレベルじゃないんだから。

「そうなんすか!まあ誰にでも新人の頃ってありますもんね。」

笹野は相変わらず必死に相槌を打つ。額には汗が滲んでいる。

そうして散々語られた後、時刻は十時半になっていた。

紫たち三人は焼鳥屋を退店する。

「あ、そいじゃ・・・。自分、家大宮なんでJRで帰ります。明日もちょっと早いんで。」

と笹野はそそくさとJRの方に向かって別れた。

「お前、もう一軒付き合えんの?」

その時急に野々村の言葉に耳を疑った。

え!?もう十一時前だけど??

「お前確か神楽坂の方だったよな、家。山手線でも都営でも帰れんだろ?」

「・・・え、ええまあ・・・。」

「じゃ付き合えよ。」

その時だった。

不意に野々村が紫の腕を自分の腕に回してきた。

「え、え!?」

紫は思わず、振り払う。

「ちょっ、野々村さん酔ってます!?」

・・・こいつ確かジョッキ三杯くらい飲んでたよな。

「ああ、だから何?」

なんて少し赤らんだ顔で平然と答えられる。

「ちょっ・・・、私ももう帰ります。明日忙しいので!」

紫は断固として断る。

「んな固い事言うなよ、なあってばさ。」

その時、野々村の右手が紫の腕を引っ張り、そして空いたもう片方の手が紫のヒップに触れた。

えっ!?えっ!?

紫は当然のことに思考が停止する。

「なあ付き合えんだろ?」

その時持っていかれた手が紫のヒップをサっと撫でられる。

「きゃあ!何するんですか!?もう帰ります!」

紫は振り払って半ば逃げて行った。

な、何今の!?セクハラなんじゃないの!!!?

紫は恐ろしかった。

ほぼ逃げ込むように都営線に乗り込んだ。

翌朝・・・。

仕事どころでなかった。

昨晩二時前まで寝付けなかった。

昨日のあれ何・・・・。

「はよっす。おう、昨日は残念だったわ、一次会しかできなくて。」

その時席にいる紫に野々村が言い放つ。

・・・こいつ平然と・・・。何て奴なの!

「・・・おはようございます。」

紫は青ざめた顔で挨拶する。

「なあ~んだ、君ら仲いいじゃん。次は俺も誘ってよ。」

と嬉しそうに吉原が話しかけてくる。

こっちはそれどころではない。

どうしよう・・・・。

どうしようどうしよう・・・!

言うべきか言わないべきか・・・。

どうしたらいいの!?

紫は午前中殆ど仕事にならなかった。

紫はあまりにも気分が悪くて昼食もとらずにいた。

「おい篠宮。こないだ頼んだ統計のデータまだメール届いてねーんだけど?」

昼休み後に野々村から言いつけられる。

「えっ。」

「おとついゆっただろうが。早くメールくれよ。」

「は、はい!」

紫は集中できない状態でおもむろにメールを打ち始める。

・・・あいつ覚えてない?それとも冗談?けど冗談にしてもお尻撫でるのはさすがにダメでしょ・・・??

部長の奥野は五十一歳のこの部署二十年の大ベテランだ。だけどアシスタントである紫とはほぼ接点がなく、直接仕事を頼まれることもほぼない。課長職の人間は二人いて、近藤と日高というどちらも四十代半ばの人間だが近藤はほぼ営業で飛び回っているし、今日も海外に出張中だ。日高は開発部から三か月前に異動してきたばかりの人間で、あまり現状を知らない。それにいずれも男性だ。

紫は逡巡した結果、高木に相談することにした。

『高木主任 お疲れ様です。折り入ってご相談したいことがあります。本日業務終了後少しお時間いただけないでしょうか?』

紫がメールを打つとすぐに返信が来た。

『篠宮さん 十八時半頃。この近くにある“あかりのまち”という喫茶店で落ち合いましょう。時間になったら現地集合で。』

高木は抜かりなく、お店の場所のURLまで添付でくれた。

紫はその日仕事にもならない状態で十八時十五分を迎えた。

まだ業務が滞っていたが、そんなに場所も遠くないので一旦休止して喫茶店に向かうことにした。

高木も後輩から相談があるという風に持ち掛けられて嫌な気はしないのだろう。ふたりで面と向かって話すことなんて初めてに近い。

店に着くと、既にソファー席に高木が座っており煙草を吸っていた。店内は昔ながらの喫茶店という作りだ。

この人喫煙者だったっけ?

だがそんなこと今はどうだっていい。

紫はブレンドのホットを注文した。

「大丈夫。社内の人間はいないから。見たところだけど。」

狭い店内はそれらしき人間はおらず、どこか近所の会社のビジネスマンがちらほら腰かけていた。

「で、何?あなたが相談なんて珍しいじゃない。」

何となく頼りにされているような態度が伺えた。

「・・・実は・・・。私その、昨晩野々村主任と笹野君とでご飯に行ったんです。勿論誘われてですが・・・。それで野々村主任・・・、結構お酒飲まれていたと思うのですが帰り際に・・・、その・・・。」

そこまで言って言葉を詰まらせた。

「・・・何かされたわけ?」

そこで察された。

「あ・・・、えっと・・・。その・・・。」

「突然キスでもされたの?」

単刀直入に聞かれる。

「いやっ、それはありませんでしたが・・・。」

「好きだとか言われた?」

「いえ・・・それも。」

「じゃ何?具体的に。」

「・・・その・・・お尻触れたっていうか。あと腕に手を回されたというか・・・。」

その瞬間何となく高木の表情が強張った気がした。

「ふうん・・・。まあ彼も健全な男だしね。」

高木はマルボロのブラックメンソールを吹かしながら言い捨てた。

・・・え・・・!?

「ふざけられたんじゃないの?別にホテルとかに誘われたわけじゃないんでしょ?」

凍り付くような冷たい言葉に胸が鳴ってしまう。

「そんなことでいちいち騒ぎ立てたら仕事なんて進まないでしょ。」

「いや・・・でもかなり強引だったんですが・・・。」

「・・・何じゃあ・・・、セクハラ問題にでもしようってこと?」

高木はマルボロをふーっと吹かす。

「え・・・、それに該当してもおかしくなかと思ったんですけど・・・。」

「・・・篠宮さん、彼に厳しく指導されてるからってちょっとオーバーなんじゃないの?」

「・・・。」

言葉が出なかった。

「飲みの席で、ちょっとやそっと触られることなんていくらでもあるわよ。私も今はさすがにないけど若い時なんてその時の部長の人に宴会の席で膝を撫でられた事あるし。今、問題にしたら彼と仕事やりにくいんじゃないの?別に問題にしたかったら窓口あるし、行ってみてもいいと思うけど。大変よ、色々と。今は色々とデリケートなのよね。」

紫は絶句した。

え、私がオーバーなの?

紫は焦る。

「ほんとに嫌なら飲みの誘い自体断ればよかったじゃない。別に仕事に直接関係ないんでしょ?」

「いや・・・、それはそうなんですけど。」

「あなたも隙があるって思われたのよ。悪いけど私ならそこまで問題にしないわ。さすがにキスされたり、ホテル行こうって言われたらちょっとは考えるけど。」

「・・・。」

私が大げさなだけなの・・・?

もうわからなかった。キスとお尻触られる事にどう違いがあるのだろう。

「話はそれだけ?あくまで私の意見よ。これは。」

「え、あ・・・、」

「もし問題にしたかったらコンプライアンス担当の福祉窓口に行っても何でもすればいいと思うわ。そして彼はいずれ異動になるか事の次第に因っては懲戒にでもなるかも知れない。だけど、色々大袈裟だって思う人の方が多いと思うけど。あとあなたの労力が勿体ないわ。」

だんだんわからなくなってきた。

「そこは自分で判断してもらうといいと思うけど。じゃあ悪いけど私十九時半に約束があるの。お代いいから。先出ていくわね。」

そう言って高木は席を立ち、会計を済ませて店をあとにした。

確かに程度で言ったら物凄く僅かだ。

ふざけられたと言えばそう。

それに相手から当たり前だが何のアクションもない。ここで謝罪したら恐らく認めてしまうことになると思うが。

結局何の行動も起こせないまま、重たい気持ちでその日を終えた。

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