第2話 オフィスと合コン

年越しも家族で過ごし、初詣も近所の神社に参拝した。

「ゆーかりっ。次の金曜空けといてよね。」

席の近くにやって来たと思ったら、後ろから仁川彩絵(にかわさえ)が楽しげに言う。

年が明け、一月も中旬に差し掛かった時だ。

オフィスでパソコンを打ちながら頼まれていた納期の調整をしていたところだった。

「え、何。」

「決まってんじゃーん・・・・。ごーこん♡」

彩絵は一応小声でそこだけ話す。

仁川彩絵は同期入社だ。中学から十年お嬢様系女子校出身でその生活をしていたせいか、高校時代から合コンばかりだと言う。

その割にはあんま彼氏できてないけど・・・。

紫は常々思っていた。

「ね、詳細ラインしますっ。」

そう言ってそそくさ出てった。

・・・飽きないなあ、あいつも。

紫はオフィスカジュアルよりもやや甘めのリボンがあちこちついたワンピースを着ている彼女の後姿を見ながら思う。

そして間髪なく彩絵からラインの着信があった。

『詳細~!一月二十三日金曜八時からIN オステリアノアール♡飲み放題からの料理もそこそこ!お相手は何と!有島通商!メンバー:経理部の里佳子と総務の美香。よろしく♡』

ますますこの文面飽きないなあと感じる。

「・・・篠宮さん携帯見てないで早く納期の調整してくれない?」

そこでナイフのように尖った声でハッとする。

「すいません、主任。」

「たく。仁川さんも大した用もないのにウロウロされちゃ困るんだけどね。ほんと。」

高木美恵子。三十九歳の独身の主任だ。

社内からはお局として知られる。業務以外の私語は一切なし。勿論昼食もひとり。黒髪にポニーテール。薄化粧に眼鏡で細身の女性だ。

「で、二時までにそれとこないだの秋発売が決まった新製品の各店舗への在庫の表作成しといてね。」

淡々と指示をされ、高木は自分のパソコンで作業をし始める。

「篠宮ちゃん。あとさー、わりいけど俺タクシーで帰宅した時の領収書貰ったから経費の伝票作成頼んでいい?」

嫌な言い方で雑務を押し付けてきたのはお決まりの吉原崇。一応これでも既婚者。中学生と小学生の子供ありだが、四十六歳にして未だ役職なしの一部ではリストラ対象だとも噂されている。眼鏡に禿げかかった頭。人の噂話とちょっかいを出すことが大好きだ。

「で、あとさあ。このファイル整理。頼んでもいい?俺あんま整理してなくってさあ。」

どんと音がして吉原の机の上に雑多に四冊のボロボロのファイルと書類が散らかる。

「日付ごとに閉じといて。ね。」

そう言い捨てると吉原は自分の作業を再開する。

見ると二年ほど前からの納品書の控えや在庫管理表の山だ。

・・・ファイリングしてなかったわけ!?この人・・・。しかも一応電子データで管理するようにルールになってるのに。

「これ・・・、期限はいつまでもすれば・・・、」

「いーからさ!何でも!できるだけはよやってよ、いーい!!?」

紫が恐る恐る聞いたのにも関わらず乱暴な指示をされる。勿論、高木主任は見てもいず自分の作業に集中している。

この営業部に来て、一年半。その前は彩絵と同じ商品企画部にいた。

しかし考慮されたのか、突然の異動宣言でこちらに配属が決まった。しかし営業部と言っても営業アシスタントの仕事。実際外回りするわけではない。

「篠宮!おい、このレポートいつのやつだよ!」

急な怒号に思わずびくっとする。

慌ただしくオフィスに入ってきたのは紫より三年先輩の野々村和樹だ。入社七年目にして主任の座を持っている。いわば営業部のエースであり、紫のペアの営業さん。

主にスーパーや量販店の外回りでかなり成績がいい。

「えっと、それは・・・。」

紫が今朝メールでPDFファイルを送付したところだった。

「どう考えたって三年は前のヤツだろ!?あのなあ、市場の動向掴まなきゃいけねえのにリアルタイムじゃねー資料なんか渡すなよ!最新のが見たいんだよ!」

「す、すいません・・・!」

よく日に焼けた肌に掘りの深い顔立ち。

昨年結婚して一歳になる子供もいる。小学生から今も現役でテニスをしていたザ・体育会だ。

「つうかお前日付くらい確認して送れ!すぐ去年のデータ送れ!たくさー、こないだも電話で店舗の担当者の名前聞き間違えるし、使えねえなあ。」

さんざんダメ出しされて野々村はさっさと自分の席に戻っていった。

エースだと周囲からの絶大な評価だが、自分に厳しく人にも厳しい人だ。一年目の新人で散々言われて退職した子だっている。

仕事の鬼という表現がぴったりだ。

「あーあ。野々ちゃん声荒げちゃってさーあ。ま、とりあえずぼちぼちやんなってさ。あ、あと篠宮ちゃん。ちょっと珈琲淹れといてくんないかな。」

隣の席で傍観していた吉原が何やら用事を言いつけてきた。

「はい・・・。」

どんなに風采があがらない上司だって、指示は指示だ。一切顔をあげていない高木からも暗黙の了解でそれは感じる。


休憩スペースに行き、コーヒーサーバーのボタンを押し、コーヒーを淹れる。

茶色い液体が紙コップに注ぎこまれる。

その様子を見ながら、はあっと思わずため息をついた。

・・・こんなはずじゃなかったのになあ・・・。

営業部と言ってもアシスタント。ほぼ営業をしている社員の庶務や雑用全般だ。そして紫は主にリカー類の在庫管理を行っている。店舗との納期調整やクレーム対応などなどだ。

それに本来企画にいた紫からすれば屈辱この上ない業務だった。

・・・なんて馬鹿になんてできない。

学校での成績、部活での賞。内申点。受験突破。

皆からの人気。

注目されてきたルックス。

憧れられていた全てのもの。

社会で通用なんて何ひとつしない。

むしろここに来るまでの関門に過ぎない。

実力と結果。

それだけが社会の上で最も重要な要素。それで成り立っている。

地元の子たちからの羨望の眼差し、評価。

だけど年末元彼の祥吾に再会して気付いた・・・。

私は何一つ手に入れられて何てないって。

ふと涙が滲んだ。


「はいかんぱーいっ!」

彩絵がいつもの如く甘ったるい声を出しながらグラスを皆のものにぶつける。

「今日は楽しみにしてたんだ、あたし!」

彩絵が気合十分のベビーピンクのワンピースを身に纏って作った笑顔で言う。

金曜日。

紫は有楽町のお洒落な地下の洋食レストランにいた。

「おーっ、えっと取り合えず自己紹介自己紹介!」

彩絵と同じくらい嬉しそうにはしゃいでいるのは有島通商の田辺と名乗る男だ。年齢は確か二つ上。やや小太りで、汗っかき。

絶対に異性として見たくないタイプだ。

「ちはっす。じゃ俺からいい?牧野義春でーすっ。有通で働いて十年になります~!」

田辺と同じくらいイケてない先輩社員だった。

「じゃ次、俺ね~。岩城英雄~。田辺と同期でー・・・。」

次々と興味も何もない男どもが自己紹介していく。

そして開始一時間が経った頃だった。

「わりい、遅くなって・・・。」

そう言いながら現れたのは、他の三人とは明らかに雰囲気が違う男だった。

「ったく、城崎~!おっせーよ!遅れまして注目浴びようってやつかよ!」

田辺がオーバーに言う。

「ちげーよ!やり残してた仕事があったからさ・・・。」

そう言って城崎と呼ばれる男は紫の丁度真正面に座る。

「こんちはっす、遅れてすいません。」

凄く綺麗な顔立ちだった。思わずドキッとしてしまう。

スタイルもすらっとしていて身長も高めだ。

何となく元彼の祥吾に感じが似ていた。

「こいつこう見えてもこの年で係長なんだぜ~!」

田辺が城崎を小突く。

「いきなり言うなよ。まーちっさい課だしな。俺と平の新入社員とパートのオバちゃんくらいだし。」

城崎は軽く笑って答える。

「城崎検一です。今年二十八になります、趣味は、冬はボードでその他はテキトーにランニングしたりしてます。」

「えーっ、凄いねえ!かっこいい!」

いの一番に歓声をあげたのは他でもない彩絵だった。

「あたし、仁川彩絵って言いまーす!二十六になったばっかです♡趣味はお菓子作りとハンドメイドで、アクセサリー作りでーす!あとカフェ巡り!こんなあたしですがよろしくお願いいたします~!」

彩絵は自信満々に自己紹介をする。

彩絵はその後もしきりに城崎に絡んでいた。

紫は正面にも関わらずあまり言葉を交わすことなく、代わりにやたらしつこく田辺に絡まれていた。

お決まりのパターンで全員のグループラインを作る。

「二軒目いこいこっ。」

彩絵にしきりに誘われる。

「ごめん、明日ちょっと予定あってさ・・・。」

紫は断りにくそうに言う。

「えーっ、いいじゃんいいじゃん!」

彩絵はなおも誘ってきたがやんわり断った。そして紫は二次会不参加で解散・・・のはずだった。

「じゃ私こっちだから、おやすみ。」

紫は皆に挨拶して、地下鉄の入り口を降りてった。彩絵や里佳子たちは田辺たちと共に夜の有楽町に消えた。

その時だった。

「―――篠宮さんっ。」

地下鉄の階段も降り終わった所で、声が掛かった。

「え?」

振り返ると先ほどの城崎が降りてきた。

名前覚えられてた?

紫は驚く。

「地下鉄なの?」

「はい・・・。家が神楽坂で・・・。」

「まじ、偶然!俺早稲田に住んでるんだけど!」

「そうだったんですね・・・。」

少し期待してしまう紫。

そして紫たちは並んで歩きながら、

「大学もそうだったからさ、都内で就職決まって同じエリアに住んでて。」

と城崎が話し出す。

「二軒目行かなかったんですね。」

「あーまあ、いつものノリで面倒になっちゃってさ。ちょうど篠宮さんが地下鉄降りてったくらいに俺も断ったから。」

そう説明される。

「つかさっき正面いたのに全然話せなかったし・・・。」

「そういえばそうですよね。」

紫は若干緊張しながら返事する。

「つか篠宮さんホントは合コンとか苦手なんじゃないの。」

「え・・・?」

図星を言い当てられ思わずドキッとした。

紫たちは改札を潜り抜け、同じ電車に乗り込む。

「実は俺も・・・。田辺が結構毎週のように合コンしたがってさ。牧野さんもだけど。」

「あー、何かそんなカンジする。ああいう場が好きそうな感じ。」

「つってもあの二人ほぼ成果ないみたいだけどね。何年も彼女いねーって。」

「飢えてるのが女性にわかっちゃうんですかね・・・。」

「てか俺に敬語使わないでよ、会社じゃないし。年齢もそんな変わんないじゃん。」

「そ、そう?じゃあ遠慮なくタメ使わせてもらうね。」

「勿論だよ。良かったらさー、飯田橋周辺で行きつけの店あるんだけど二軒目行かない?」

「え・・・。」

驚いた、確かに少し気に入られてる感じはあったが、

「明日仕事休みでしょ?あんまうるさくないとこだし、そこそこさ酒の種類多いし。あ、明日予定あるんだっけ。」

そう聞かれて、

「・・・。少しだけなら付き合えるよ。」

紫は誘いに承諾した。

飯田橋駅で降りて、徒歩二分ほど歩き路地の一角にある一軒家の前で城崎は立ち止まり扉を開けた。

「いらっしゃいませ。」

マスターらしき五十代の男性に挨拶された。店内は薄暗く間接照明が所々にあり、比較的店の年齢層も高めで団体客は見受けられない。

そして紫たちはテーブル席に座り、城崎は生ビールを紫はハイボールをオーダーした。

「ていうか名前覚えてたんだね、びっくりしたよ。」

「そりゃあね・・・、前の席だったし。篠宮紫さんでしょ?後の子たちも覚えてるよ。俺と一番話してた子は仁川彩絵ちゃんだろ。で、あとのふたりが橘田里佳子ちゃんと原美香ちゃん。」

「すっごい、一度だけなのに?」

「やー、割と客先と会うことが多いから結構入社した当初お客さんの名前は三分で覚えるように先輩社員にきつく指導されてたからさ。まー、合コンだから明日には忘れてると思うけど。」

「やるねえ。」

素直に凄いと思った。

紫たちはそれからお互いの仕事の話や出身地の話をした。彼は生まれも育ちも都内だそうだ。

「私は茨城の田舎出身だよ。」

「うっそそうなの。何か見えねー、女子校育ちって感じ。」

「え、それどういう意味?」

「お嬢っぽいってこと。」

「まさか。地元の公立だったよ。私立は大学入ってから。家も普通だし。女子校育ちなのは一番話してた彩絵の方だよ。あのコは十年間。」

「へー・・・。」

何となく城崎がそれほど興味を持っていない感じがした。

「つか検一でいいよ。名字呼びにくくない?」

「え・・・、じゃあわかった。」

「じゃあ紫ちゃんって呼んでいい?」

「うん。」

検一の主な仕事は有島通商の大元である自動車メーカーのARISHIMAの自動車に使用する組立パーツを海外に輸出手配しているとのことだ。

今は市場規模があまりない東南アジアの小さい諸国であまり大きい仕事は任せてもらえていないらしい。

「庶務とか事務処理が多くてさ。人がいなくって。とりあえず俺が課のまとめ役みたいになって。係長の名前で仕事させられてんだけどさ。」

「へえー・・・。」

検一いわくそこそこ海外出張もあるようだ。最近はシンガポールに商談のために行ったそうだ。

「私も学生時代半年だけアメリカにいたよ。」

「えっ、そうなの?」

「まあ学校が涼慶で、割とそっち方面に力入れてたから。何ていうか学校のプログラムで。」

割と良心的な価格で姉妹校として提携しているカンザスの大学に半年間経営学を勉強する機会があった。

「へーやるじゃん。俺もアメリカなら旅行でニューヨークとかメジャーどころだけど、行ったことあるよ。オーストラリアには一年いた。」

「えっ、そうなの?」

「一応国際教養学部ってやつ出身だからさ。俺も向こうの大学で国際協力とかの勉強してて。」

「へー・・・。」

その話に紫は何となく惹かれた。

「ほんとは青年海外協力隊に入りたかったんだけどさ・・・、やっぱ金いるし。社会で金稼ぐ方が親孝行かなって。そんで今まあ社会人してんだけど。」

その発言を聞いて紫は思わず尊敬してしまった。

紫たちはそれからも程なく話し、二時頃まで店にいた。紫は遠慮したが全て飲食料は出してくれた。

そして検一は躊躇うことなくタクシーを呼んでくれ、同乗した。

「俺のが遠いから、いいから。」

と料金も一切請求してこず、家の前までタクシーで送ってくれた。

「またメシにでも行こうよ。」

そんなにしつこくもなく別れ際に言われた。

数時間前に田辺から個人的にラインメッセージが来ていたが未読のままにしていた。

「ただいま・・・。」

神楽坂より牛込神楽坂に程近いインターネットと宅配ボックス完備の築三年でまだそこそこ新しい賃貸のレディースマンションだ。家賃共益費込みで十万五千円。学生時代に住んでいたマンションよりもワンランクかツーランクあげた。今の月給は二十六ほど。ボーナスで言うと軽く両方合わせて百五十はあった。

総合職でこの業界に入った。

けれど成果が出せずに企画から営業部のそれもアシスタントだなんて・・・。

彩絵はああ見えても仕事に関しては紫よりもずっといい評価だった。

先ほどの田辺からのラインは未読無視していた。それよりも先ほどからスマホの着信アリの合図のLEDランプが点滅していたのは、ラインではないメールアプリの方だ。

画面を指で滑らせてメッセージを開く。受信時間は九時過ぎ。

『今週もお疲れ。ところで今度の日曜、予定ある?』

紫は宛名の名前も変えていた。

『P』

英語でPEARは梨の意味。

梨木浩輔。三十八歳。

企画部のWEB部門の課長職の男だ。妻帯者、五歳の息子と二歳の娘あり。

『日曜ならいけるよ』

それだけ打つと、送信した。

珍しいな。日曜日何て。

何かあると感づいた。

浩輔は三十五歳という若さで課長職に就いたかなりやり手の男だった。同じ企画部にいた時にまだ浩輔はグループリーダーという肩書だったが仕事をかなり教えてもらった。

この関係が始まったのは・・・、ちょうど今から三年前。

入社して丁度一年が経過した所だった。

同じグループで紫は当社のブランドでもあるリカー類のオンラインショップへの企画プロジェクトで一緒に仕事する機会があり、一緒に仕事したことがキッカケだった。

紫はWEB関係で仕事することが初めてだったこともあり、客先へのメールでの依頼で重大な依頼ミスをしてしまったのだ。それにすぐに気付き、フォローしてくれたのが浩輔だった。

「梨木さん・・・、この度は本当に申し訳ございませんでした。」

紫は何度も座っている浩輔に向かって頭を下げた。

「取り合えず今日は遅くなったし・・・、晩飯でも一緒に食おうよ。」

そう誘われたことが本当に始まりだった。

その日イタリアンに連れて行ってご馳走になった後、二軒目まで誘われた。そこで驚いたのがホテルの最上階にあるバーだったことだ。

学生時代何度か社会人の彼氏に連れて行ってもらったことはあるが、今まで一番の高級なところだった。更に会員限定のシートまで取ってくれて驚いた。

何度か取引先と使用したことがあったのだと言われた。

そしてその日が金曜日だったこともあり―――

そのままそのホテルで宿泊を誘われて、一線を越えた。

以前から紫のことは気に入っていたということを告白された。

妻とは仮面夫婦だとか言ってたけど・・・、結局二年前に娘が産まれていた。

その時本当に別れようかと悩んだけど、どうしても離れられなくて現在進行形で続いている・・・。

もう異動になって仕事で接点を持つことはごくたまにになった。それでも時々業務の用事を言われることがある。

そしてこの男・・・、用意周到の抜かりのない奴だ。

外で会う時は絶対に現場が漏洩しないよう、ホテルの部屋もしくは紫の自宅のみだ。ホテルだって絶対ラブホテルは使用しない。

食事でさえルームサービス、ホテルのバーの傍からはっきりとわからないカップルシートの席、もしくは紫のこの部屋で紫が手料理を振る舞う。外食は完全個室の若い層や飲み会には絶対使用しないような所。そして会計は紫が出た後に済ませて、タクシーでさえ紫が先に乗り込み、その後相手が乗車する、という徹底ぶり。ホテル前のタクシーロータリーで社内の人間がもし目撃したとしても、仕事の付き合いということを言えるよう。

紫の部屋に来る時は決まって、マンションの前までタクシー。浩輔は西麻布に住んでいるが一旦新宿に出てから必ずタクシーを使用。近所の目があるから。

この近辺に社内の人間は住んでいないが、念には念を重ねて。エントランスでタクシーを下車してそのまま部屋番号を押して紫を呼び出す。そして紫はカメラ越しに姿を確認して無言でドアを開錠する。

携帯でのメッセージだって六時間経つと自動消去の設定にしているらしい。紫もするように強要されたのでそれに従っている。それに浩輔は紫専用のスマホを持っている。この関係になって三週間で常備し始めた。勿論家族に知られないよう自分名義で口座も自分宛のもの。請求書も紙のものは発行しないように手配済だ。無論彼の携帯のGPSは常時オフ。

電話は紫からまずかけることはナシ。もししたい時は必ず事前にメッセージで確認することだった。

こんな面倒な決まり事を全部遵守してしまっている自分がいる。

こんなこと三年も続けている自分に驚く。

「ねえ、浩くん・・・。いつ奥さんと別れてくれるの・・・?」

一度だけ聞いたことがあるけど、「悪いけどそのつもりはないから・・・。だけど紫のことは特別なんだよ。」なんて答えられてハグされて許してしまった。

この三年様々な出会いはあった。

専ら彩絵からの合コン伝いだけど。

社内の総務部にいる独身の一つ上の先輩社員ともご飯に誘われて、二、三回行ったけどどうしても気が乗らなくてそのまま距離をとって、フェードアウトした。

間もなく着信が来る。

『じゃあ、お昼前に行くから。久しぶりに紫の手料理が食べたい』

なんてメッセージが来た。

・・・はいはい・・・。

『週末の家族サービスは?』

「嫁は子供連れて、明日から泊りで実家の横浜に帰る予定。」

そういうことか。

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