第6話 鍵を受け取る男
うーん…………。
最悪の寝起きだ。首も痛いし、頭も痛い。無理な寝相がたたったか。
やはり、ネットカフェでは安眠には程遠い。
そして備え付けのパソコンのモニタは、この街での最初の客の顔写真を映し出したままにしていた。
【
部屋の下見の時に顔と名前だけは確認済みだったが、改めてじっくり検索してみると、出てくる出てくるあくどい噂。脱税、贈賄、恐喝、果ては殺人まで。
これは搾り取り甲斐がありそうだが、ネット上に転がっているのは噂だけ。結局、役に立った情報は会社の所在地ぐらいだ。
溶け切ってしまったフローズンドリンク。
昨夜食べた夜食の食器。
そして積み上げられたマンガ……。
ああそういえば、疲れていたはずなのに読み始めたマンガに
まずは寝起きの一杯。といっても、フローズンドリンクだが。
食器を返却しつつ、ドリンクバーへと向かう。
そして窓の外は明かりも少なめの、やや寂しげな夜景……。夜景?
慌てて個室に戻り、机の上に置いておいた携帯電話で時刻を確認する。
なんてこった、寝坊なんてもんじゃない。もう夜じゃないか。
大急ぎで身支度を整え、清算を済ませると店を後にした。
「すいません……遅くなってしまって。ふう……、まだ、大丈夫ですか?」
息を切らしながら駆け込む不動産屋。
鍵の受け取りには、どうやら間に合ったらしい。
「いらっしゃいませ。今日はお越しにならないのかと心配してました」
店内は閑散としていて、閉店間際ならではの静けさ。
店員はほとんど退勤したのだろうか。唯子の他には、責任者と思われる高齢の男が一人だけ。
一足遅かったら、今夜もまたネットカフェで窮屈な一夜を過ごすところだった。
すんでのところで回避。改めて胸を撫で下ろす。
「それじゃ、さっそく始めましょうか」
そう言いながら、サービスのコーヒーを差し出す唯子。
そしてパンフレットを取り出すと、鍵の引き渡しにあたっての注意事項を形式的に読み上げ始めた。
毎度のことながら無駄な時間。どうしても退屈さが表情に出てしまう。
唯子もそれぐらい感じ取っているだろう。それでも規則だからと、怠るわけにいかない彼女に同情する。
そこへ、説明の区切りを待っていたかのように、男から声がかかった。
「川上さん、まだかかるようなら、先にあがらせてもらっていいかな?」
「わかりました、後はやっておきますんで。お疲れ様でした、課長」
唯一残っていた高齢の男も退勤。
唯子と俺の二人だけが、店内に取り残された。
説明を再開した唯子を眺めながら、ふと閃く。
(まてよ、これはチャンスだな……)
絶好のシチュエーションに、
邪と言ってもビジネスの話だ。いや、あわよくばそれもありか。
「昨日の話なんだけど……」
「え? 本当に出たんですか?」
「出たって……何が?」
少し考えて気付く。
いや、唯子の父親の幽霊なんて出るはずがない。というか、まだ住んでもいないのだから、出たとしても見られるはずがない。
呆れて返事をしようとすると、唯子も気付いたらしい。突き出した両手を慌てるように振って、言葉を取り消す。
「すいません、すいません。今のなしです。忘れてください。それで、何の話でしょう」
「水野江工業の話だよ」
「ああ、その話ですね。あの時は取り乱しちゃってすいませんでした。恥ずかしいところ見られちゃったな……。できれば、そっちも忘れて欲しいぐらいです……」
何を謝っているのやら。それに、恥ずかしがることなんてあったかと思い返す。
涙を見せたこと? それなら、最初に出会った時に涙を浮かべてただろうに。
それに、そんな些細な願望を聞き届けるつもりもない。構わず質問する。
「君のお父さんは、水野江社長に弱みでも握られていたのかな? 相当な低姿勢で、頼み事をしていたみたいなんだけど」
水野江の記憶にあった、唯子の父親が登場した場面を尋ねてみる。
大の大人が涙ながらに土下座など、そうそうあることではない。
しかも、床に額を擦り付けて。
「きっと、倒産するちょっと前のことですね。その頃、私はまだ中学生でしたから、父は何も話しませんでした。仕事が上手くいってないのは察してましたけど、こっちから聞けるはずもなくて……」
「じゃあ、何を頼んでいたかまではわからないか……」
「そうですね、はっきりとは……。きっと、お金絡みだと思いますけど……」
それぐらいは俺にでも思いつく。
だからこそ、唯子からならもっと詳しい話が聞けるかもしれないと考えたのだが、この様子では彼女から水野江に迫るのは無理だろう。
少し質問を変えてみるか。
「水野江の周りには色々と悪評が立っているようだけど、何か知らないかな?」
「そういえば、水野江工業を調べてるんでしたね。悪評ですか……」
「脱税、贈賄、恐喝、それに殺人なんて噂もある。どうだろう、知ってることがあったら教えて欲しいんだ。些細なことで構わないから」
「確かに脱税とか贈賄辺りはやってそうですよね。議員さんとも仲が良いみたいですし――」
結局、ここでも聞けるのは噂のレベルか。
ネットの書き込みも想像に始まって、そこに尾ひれが付いたようなもの。
根拠と呼べるものは、何一つ見当たらなかった。
「――それに恐喝まがいのひどい目には、あの周辺の工場ならどこも遭ってると思いますよ。何しろあの辺一帯の町工場を、牛耳っているのが水野江工業ですから」
ちょっと尋ねたぐらいで出てくる情報なら、とっくに知れ渡っているか。
どうやら確実な情報は、自分の足で掴むしかないらしい。
今はこれ以上の情報は持ってなさそうな唯子。それでも今後のために、協力を仰いでおくことにする。
「あんな悪党をギャフンと言わせるためにも、この先何か気付くことがあったら教えて欲しいんだ」
「ギャフンですか……。まいったーとか、やられたーならともかく、ギャフンはちょっと難しいんじゃないですか」
「例えだよ!」
真面目か。
閉店間際に駆け込んだお陰で唯子から情報を聞き出せるかと思ったが、結局カギの受け渡しが長引いただけだった。
そして残業させられる破目になった唯子には、申し訳ないことをした。
「遅くなっちゃって悪かったね。カギもらえるかな? さっそく、新居へと向かわせてもらうよ。もしもお父さんの幽霊が出たら、ちゃんと報告するから」
「何言ってるんですか、鳴海沢さん。注意事項の説明は、まだ終わってませんよ」
再び契約書を広げ、読み上げていく唯子。
どうやら新居への入居は、今しばらくおあずけのようだ……。
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