ある人間の話②

 その日も朝から雨が降っていて、夕方頃には土砂降りに変わっていた。

 激しい雨のせいか道路にすら人がいなかったが、当時の俺は気にしていなかった。

 猫ちゃんが来てくれるなら、それでいいと思っていた。

 そして、その日も、猫ちゃんはいつも通りの時間にやってきた。


「こんにちは、猫ちゃん」


 俺は笑顔で挨拶したが、猫ちゃんはじっと俺を睨んでいた。


「ニャー!」


 その鳴き声はいつもよりも低くて、怒っているように聞こえた。


「どうしたの?」


 聞いたところでわかるわけが無いのだが、あまりに鬼気迫る鳴き声だったので、思わずそう聞いていた。


「ニャー!」


 猫ちゃんはまだ怒っている。

 何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうかと、俺は不安になった。


「僕、なにかしちゃったかな?」

「ギニャー!」


 猫ちゃんの鳴き声がより一層低くなり、怒気が増した気がした。

 まるで拒絶するような声に、俺は猫ちゃんに手を伸ばした。


「猫ちゃん……?」


 その瞬間、猫ちゃんが俺の手に爪を立てた。


「痛っ!」


 思わず手を引っ込めると、猫ちゃんが低く唸って威嚇してくる。

 まるで、初めて会った時のように。

 当時の俺は、猫ちゃんに完全に嫌われてしまったのだと思った。

 仲良くなれたと思っていたのは、自分だけだったのだと。

 それは、友達と疎遠になるよりもずっと悲しくて。

 気づけば、目から涙が出て止まらなかった。


「……ごめんね」


 自分は何をしてしまったのだろう?

 この子に嫌われるようなことをしたつもりは無かったけど、気に食わないことでもあったのだろうか。

 今からでもそれを直せれば、また猫ちゃんは会ってくれるだろうか。

 確か、そんなことを考えていたと思う。

 嫌われたことがショックすぎて呆然としていたせいで、俺は反応が遅れてしまった。


「猫ちゃん!」


 気づいた時には、猫ちゃんが公園を飛び出して車に跳ね飛ばされる瞬間だった。

 小さな身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。

 俺は急いで猫ちゃんの元へ行った。


「猫ちゃん! 死んじゃやだよ!」


 俺だって轢かれるかもしれない危ない行為ではあったが、当時はそんなこと頭に浮かばなかった。

 ぐったりした猫ちゃんを見て、混乱状態に陥っていた。

 血がいっぱい出ていた。息もほとんどしていなかった。

 そっと触れると、猫ちゃんの体温が急激に下がっていくのがわかった。


「ごめん、ごめんね……!」


 ゆっくりと猫ちゃんの身体を撫でて、安全な場所に移動する。

 まだ助かる、助けられる。

 そう思って、俺は必死に猫ちゃんを温めようとした。

 でも、猫ちゃんの身体から血が止まらなくて、体温も上がるどころかどんどん下がっていった。

 そして、そのまま猫ちゃんは動かなくなってしまった。

 俺は大泣きしながら、血で汚れるのも構わず猫ちゃんの身体を抱きしめた。

 この子が死んでしまったことを受け入れるのにずいぶんと時間がかかってしまい、心配して迎えに来た母親に見つかるまで泣きじゃくっていた。

 母親は、俺が猫ちゃんの死を受け入れ、公園の木の下に誰かに見つからないようにひっそりとお墓を作るところまで見守っていてくれた。

 でも、死を受け入れても、また悲しさがこみ上げてきて、すぐにベッドに潜って一人で泣いた。

 枕を涙でぐしょぐしょにして、気がつけば泣き疲れて寝てしまっていたらしい。

 その日の夜、不思議な夢を見た。

 具体的な内容は忘れてしまったが、猫ちゃんが出てきたのは覚えている。

 猫ちゃんは、俺のことを心配そうに見つめていた。

 所詮は夢だから、自分の希望も入っているとは思う。

 でも、その夢で、俺は猫ちゃんも俺のことを大切に思っていてくれたんだと思えた。

 もしかして、俺がひとりぼっちになるのを心配してくれてるんじゃないかって、そう思えたんだ。




「……おーい、聞こえてるか?」


 いつの間にか、目を閉じて眠ってしまっていたらしい。

 間抜けな声に呼びかけられ目を開けると、そこには腐れ縁の男がいた。


「あ、お前、今ちょっと失礼なこと考えてなかったか?」

「……よくわかったな」

「否定しないのかよ」


 目の前で苦笑いを浮かべるこいつの名前は虎太郎こたろうという。

 猫ちゃんが亡くなった後、初めてできた人間の友達だ。


「というか、何の用だよ」

「用がなかったら話しかけちゃダメなのか?」

「そういう訳じゃないが、お前のことだから傘でも忘れたのかと思ってな」

「おお、さっすが幼馴染くん! 俺のことわかってるね!」


 バチッと虎太郎がウインクする。

 相変わらず無駄にウザイ。


「言っておくが、俺はお前と相合傘するなんてゴメンだからな」

「えー、ひどくね? 昔は進んで相合傘してくれたくせに」

「そんなの小学校の時までだっただろ。折りたたみ傘貸してやるから、それ使って帰れ」


 俺は鞄の中から折りたたみ傘を引っ張り出し、虎太郎に放り投げる。


「サンキュー。あ、相合傘しない代わりに、今日は一緒に帰らね?」


 虎太郎は猫のようなアーモンド型の目を細め、ニッコリと笑う。


「……元々、そのつもりだったけど」

「あ、マジで?」

「お前に貸すといつ返ってくるかわからないからな」

「はは! 確かに!」


 貶しているつもりなのだが、こいつには通用しないらしい。

 まあ、そういうのも毎度のことだ。


「あれ、ということは、俺のこと家まで送ってくれんの? やだっ超優しい……」

「ウゼェ」

「ツンデレなんだよな、わかってるわかってる」


 ……こいつのポジティブ思考が時々羨ましくなる。

 初めて出会った時からこんな奴だった。

 図々しくて、やたらとポジティブで、俺にばっかり構ってきて。

 一度、「なんで俺みたいなやつと一緒にいるのか」と聞いてみたことがあった。

 そしたら、虎太郎は良い笑顔で「お前といたいから」と答えやがった。

 答えになってないと思ったが、俺はそれ以上聞くのを止めた。

 きっと、いくら聞いても、こいつはそう答えると思ったから。


「あれ、ちょっとだけ雨弱くなってきた?」


 虎太郎につられて窓の外を見ると、確かに雨が弱まってる気がした。


「なぁ、虎太郎」

「何?」


 虎太郎が首を傾げる。

 アーモンド型の大きな目に見つめられると、全てを見透かされそうな気がしてくる。


「……いや、やっぱ、なんでもない」


 気恥ずかしくなって、言いかけた言葉を飲み込む。

 なぜだか、こいつに感謝したい気になったのだが、「ありがとう」というにも今更すぎるし、何よりちょっとだけ癪だった。


「……ふーん、そっか」


 普段なら「なんでもない」と言うとしつこく聞いてくるのに、今日は意外にも虎太郎はあっさりと引き下がった。

 俺が驚いていると、虎太郎は急に真面目なな顔になり、その顔を近づけてきた。


「俺、死んでもお前のそばにいるから。絶対に、お前を一人にしないからな」


 いつものふざけた調子とは違う、虎太郎の真剣な声。

 目は真っ直ぐに俺だけを見つめていて、少しだけ動揺してしまった。


「……お前、俺にとり憑く気かよ」


 何とか絞り出した言葉は、虎太郎をからかうようなものになってしまった。


「そうだなぁ、お前が寂しそうにしてたら、とり憑いてやるよ」

「なんで偉そうなんだよ……」


 気がつくと、虎太郎は俺から離れ、いつも通りの子供っぽい笑顔を浮かべていた。

 こいつがさっき言った言葉は、どこまでが本気だったのだろう。

 そのことを尋ねられないまま、予鈴がなってしまった。


「あ、じゃあ、帰りよろしくな!」

「おう、わかったわかった」


 俺はヒラヒラと虎太郎に手を振る。

 いつものように虎太郎とは目を合わせずに手を振っていたため、俺はあいつが何か言ったことにすら気づかなかった。


「……今度こそ、絶対にひとりぼっちになんてしねぇし、泣かせたりもしねぇからな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある猫の話 真兎颯也 @souya_mato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ