ある人間の話①

 ふと、読んでいた本から顔を上げ、窓の外を見る。

 今朝は晴れていたというのに、今は土砂降りになっている。

 梅雨の、特にこんな大雨の日は、あの日のことを思い出す。




 ――今から7年前。

 俺の家はいわゆる「転勤族」だった。

 小学校に上がる前まではそんなに転勤は無かったらしいが、小学生になってからは半年に一回は転校するといった生活をしていた。

 友達を作っても、結局は転校するとすぐ疎遠になってしまう。

 そんなことを繰り返すうちに、当時の俺はもう友達を作ることすら諦めていた。

 でも、幼かった俺は、心のどこかでまだ友達が欲しいと思っていたのだろう。

 放課後、公園で遊ぶ同世代の子供達を遠目から眺めるのが日課のようになっていた。

 その日も、雨が降っていたにも関わらず、俺は公園に来ていた。

 今思うと、なんで誰もいるはずのない雨の日の公園に行ったのかはわからない。

 だけど、俺はその日、あの子と出会った。


「……ねこ?」


 その子は、虎柄の目つきが悪い猫だった。

 明らかに俺のことを警戒していたし、本来なら関わらない方が良かったのだと思う。

 でも、全身びしょ濡れの痩せ細った身体は、とても痛ましく見えた。


「フーッ!」


 その声に、俺は思わずビクッとする。

 これ以上いると引っ掻かれるかもしれないと思った俺は、手に持っていた傘を猫ちゃんが雨に濡れないようにさしてあげて、その場を去った。

 猫ちゃんには警戒されていたが、当時の俺はその子のことが心配だった。

 雨に濡れた痩せ細った身体が目に焼き付き、家に帰ってからも猫ちゃんのことばかり考えていた。

 次の日、俺はまた公園に行った。

 昨日の猫ちゃんがどうしても心配だったからだ。

 公園に着いて、すぐに猫ちゃんにあげた傘を見つけた。

 そのそばに、猫ちゃんはいなかった。

 落胆したが、猫は気まぐれなのだからしょうがないと思い、公園で遊ぶ他の子供達を眺めていた。

 不意に、何かが近づいてきてる気がして、目線をそっちに移す。


「……昨日の猫ちゃん?」


 また会えるなんて思っていなかった俺は、思わず顔を綻ばせた。


「また会えるなんて思ってなかったよ。傘、君の役に立ったかな?」

「ニャア」


 なんて言っているのかわからなかったが、たぶん役に立ったのだと思った。

 その時、俺は家からあるものを持ってきていたことを思い出す。


「あ、そうだ」


 ランドセルを下ろし、中から目的のものを取り出した。


「今日、君に会えるかなって思って、家からにぼしを少しだけ持ってきたんだ」


 もし猫ちゃんに会えたらあげようと思っていたもの。

 それは家から持ってきたにぼしだった。

 母親には内緒で持ってきたのでそんなに量はなかったが、痩せ細った猫ちゃんに少しでも食べさせてあげたいと思って持ってきたのだった。


「君のために持ってきたんだ。気に入ってくれるといいんだけど……」


 まだ警戒されているのか、なかなか食べようとしてくれない。

 だが、猫ちゃんは俺をじっと見つめると、臭いを嗅いでからにぼしを少しだけ齧った。

 そして、すぐに夢中になって食べ始める。


「ふふっ。そんなに慌てて食べなくてもまだいっぱいあるよ」


 俺は袋に残っていたにぼしを全て猫ちゃんの目の前に置いた。


「ニャア?」


 何かを尋ねるようにして猫ちゃんが鳴いたけど、意図がわからなかったので俺はただニコニコと微笑んでいた。

 猫ちゃんもすぐにまたにぼしを食べ始めた。

 幸せそうに食べる猫ちゃんを見ていると、不思議と自分も幸せな気分になっていった。


「……ねえ、猫ちゃん」


 俺がそう言うと、猫ちゃんは顔を上げた。

 その頭を俺はそっと撫でる。


「これから毎日、君に会いに来てもいいかな?」


 もっと警戒されてしまうかもと思っていたが、猫ちゃんは気持ち良さそうに撫でられていた。

 猫ちゃんの身体は痩せていたが、撫でるととても温かくて、この子が確かに生きているということを実感できた。


「猫ちゃんはあったかいね」


 その子は俺が満足するまで、黙って撫でられていてくれた。

 その日から、俺は毎日、その公園で猫ちゃんを待った。

 猫ちゃんもいつも決まった時間に現れた。

 俺が持っていくのはにぼしばっかりで、猫ちゃんは飽きてしまうんじゃないかと思っていたけど、いつも美味しそうに食べてくれた。

 次第に、俺は猫ちゃんに他愛もない話をするようになっていった。

 猫ちゃんには何も伝わっていなかったと思うけど、話を聞いてくれる相手がいるだけで嬉しかった。

 でも、ある日から、猫ちゃんの様子がおかしくなった。


「今日はね、にぼしをいっぱい持ってきたんだ!」


 いつものように、にぼしを猫ちゃんの目の前に山積みにする。

 こうするといつもなら猫ちゃんは喜んでにぼしに飛びつくのだが、この日はなぜだか一向に食べ始める気配がない。


「どうしたの? 具合悪いの?」


 そう言うと、猫ちゃんは慌てた様子で食べ始めた。


「そんなに急いで食べると喉に詰まらせちゃうよ」


 俺が笑うと、猫ちゃんが食べるのをやめてこっちを見た気がした。

 でも、すぐに下を向いて食べだしたので気のせいだったのかなと、その時は思った。

 その日以降、猫ちゃんはご飯を持ってきてもあまり喜んでくれなくなった。

 むしろ、俺を見て悲しい表情を浮かべているような気がした。

 もちろん、猫の気持ちなんてわからないから、勘違いかもしれないけど。

 そして、猫ちゃんの様子がおかしくなってから数日後、あの出来事が起こった。

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