櫻花、散る

「俺は」




 妖だ。


 その一言を、ついに言おうと決意したのだ。


 俺は。




「目が、見えてんだろ?」


 刀を鞘に戻した綾瀬が、腰に手を当てたまま言葉を継いだ。


「てめえの動き、反応、どれにしたって皇城にいる時とは別人みたいだったぜ……そうなんだろ?」


 それ自体は、誤りではない。短く首肯する沙嶺に、綾瀬は人懐こい笑顔を浮かべた。


「よかったな、治ってよ」




 違う。違うのだ。


 迷い、落とした視界の隅で、闇が揺れた。


 いつの間にか、闇のこの空間のすぐ近くまで、水面が迫ってきていた。


 ひどく懐かしく、ひどく悲しげな。そう、それはまるで、涙で視界が歪んだときのように、儚く揺れた。



「俺は……妖だ」


 すぐには、答えはなかった。


 続く言葉は思いつかなかった。


 黙って、頭を下げる。


「悪かった、黙っていて」


 水面がもう一度、揺れた。まるで沙嶺の涙を慰めるかのように、頬を花弁が撫で落ちる。




「まあ、そういうこともあるってことだなあ」

「それは……さすがに気づきませんでしたね」

「だって、だってあんちゃん、どう見たって……」

「お前にあった夜に感じた気配は……それ故か」


 きぃ、きぃと櫂が軋む音が聞こえた。


 灯篭を掲げ持った、狐の船頭が、舟を寄せてきていた。


 既に舞と鬼哭は、舟に乗り込んでいる。残る一艘が、沙嶺を待っていた。




「で、お前は何処に行こうってんだ?」


 腕を組んだ綾瀬が、首を傾げながら尋ねてきた。


「俺は別に、てめえが人間だろうが妖だろうが、一向にかまわねえけどな」


「もう、時代が変わったんだ」


 ぐっと沙嶺の指が固く握られる。


「もう、妖は……人とは暮らせないんだよ」


 ざあっと、花弁を乗せた風が沙嶺の髪を弄んだ。


「今宵を最後に、妖は、人間の前から姿を消す」


 そうしなければ、我々は、生きてはいけない。瓦斯灯が夜も昼のように隈なく照らすことによって、人は妖の領域を奪い去ったのだ。


「ですが、一つだけ、頼みがある」


 沙嶺は空を仰いだ。はじめて舞に出会ったときの狂い咲きの櫻のような光景が、沙嶺の視界には見えていた。


「あなた方は、妖が最後に信じ、命を預けてきた人間だということを、どうか忘れないでほしい」


 それは、我等がずっと昔から、人と共存してきたことを示す、最後の証なのだから。


「そしていつの日か、あなた方と共に暮らせる時代が来たならば……そのときは、また」




 沙嶺の指から、錫が落ちた。


 静かに水面を舟に向かって、歩いていく。船頭を務める狐は、沙嶺に軽く会釈をすると、再び櫂を握った。


「沙嶺!」


 名を呼ばれ、振り返る。


 呼んだのは、光照であった。


「仲間はずれは作ってやっちゃあ可愛そうだからね、頼むよ」


 光照が、何かを放って寄越した。


 見れば、それは小さな竹筒であった。封を解くと、中から現れた管狐が沙嶺の肩を踊るように駆ける。




「達者でな」


 舞が頷くと、舟は動き出した。


 帆先を彼方に向け、ゆっくりと遠ざかっていく。


「嗚呼……佳い風だ」


 沙嶺の呟きは、櫻の風鳴りによって、掻き消されながら、響いていた。


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