第三十九章第三節<禁呪>

 眉を逆立て、エフィリムは新たな闖入者をねめつけた。


 かつて、帝都に巡る呪術結界の全てを、深い怨念と共に語った誠十朗が、今、自分に縛魔の呪法を仕掛けているのだ。


「今なら許そうじゃないか……術を解くんだね、誠十朗」


 だが誠十朗は、その言葉に冷笑をもって答えた。


「もしも邪魔なら、術を破ればよかろう。できれば、の話だがな」


 刀印を崩さず、誠十朗は涼しげに言い返した。エフィリムの意識が、怒号を打ち鳴らすのに時間はかからなかった。


「よかろう……では次は貴様の魂魄を微塵に打ち砕いてくれる」


 腕に力をこめ、携えた魔槍を再び投ずる。


 だが今度もまた、指が開くことはない。莫迦な、一介の呪術師に我が魔力が押さえつけられるなど。誠十朗はその様子に眉一つ動かさず、囁くような声で詠唱を続けている。


「吾是、天帝所使執持金刀、非凡常刀、是百錬之刀也」


「誠十朗ッ!!」


 その中で、北斗だけが反応した。


 誠十朗を包む呪力の流れ。それは泰山府君という神の導きによって、呪法が施されていた。


 即ち、触媒は己の命。霊峰東岳泰山への祈祷をもって、誠十朗は己の命によって呪力を強化していたのだった。


 死ぬことなど、怖くはない。本来であれば、俺はあのまま、闇の中に取り込まれていくしかない道をひた走っていたのだから。


「ぬあああああああッ!」


 エフィリムは槍の形状から大剱へと変化させ、それによって斬りつけようと振りかぶる。しかしその動きもまた、誠十朗の禁呪によって縛られることとなる。


 呪力をさらに重ねたことで、誠十朗の魂魄が大きく削られる。たまらずに膝をつきながらも、結印は崩さぬ。


「一下何鬼不走、何病不愈、千妖万邪」


 同じく墨曜道の呪術を使う者よ。


 確か、お前には皇城で、闇を知らぬお前は勝てぬ、と言った覚えがあった。


 しかし、人として生きている以上、お前にはお前の闇があったはずだ。


 闇を知らず生きていけるほど、人の世は甘くない。俺の痛みがお前に分からぬように、お前の闇もまた、俺には計り知れぬ。


 ならば。


 闇に縛られず、歩むお前のほうが、本当はずっと強かったのだ。


 自分の間違いに、ここで気づくとは。




 あの魔女の禁呪は、俺がやる。


 お前たちは、魔女を倒せ。




「千妖万邪、皆悉済除、急急如律令ッ!」


 エフィリムの全身に、誠十朗の呪力から生まれた鎖の幻像が重なった。無数の楔を揺らしつつ、囚われたエフィリムが甲高い悲鳴を上げる。


 そして、見よ。エフィリムの翼がうねるように動き、そして何かが新たに生み出されようとしているではないか。


 いや、生み出されるのではない。エフィリムに宿っていたものが、分離しようとしているのだ。めりめりと組織を音を立てながら引き剥がし、透明な体液が撒き散らされる。背中の皮膚を突き破りながらエフィリムから分かれてくるのは、黒い翼を生やした、脊椎のような醜悪な姿をした百足に似た蟲であった。


 何度も嘔吐をするように、躰を波打たせるエフィリム。大陸呪術における奥義の一つであった、禁呪と呼ばれる呪法。「禁ずる」ことで、それ本来の持つ性質を失わせるそれは、恐るべき力を持つ呪術であった。


 故に、大和朝廷はそれを排斥した。墨曜道は取り入れたが、禁呪を持つ呪術師は呪禁師として、徹底した管理を敷いたのだ。


 だからこそ、それは北斗には不可能な呪術であった。


 誠十朗だけが持つ、恐るべき道教の秘儀。




 それをして、誠十朗はエフィリムの魔力経路の伝達を「禁」じたのであった。


 真っ先に動いたのは、北斗であった。


 指先に撫物と呼ばれる呪符を持ち、疾走しながらエフィリムと擦れ違い様に符をエフィリムに触れさせる。髪をなびかせながら、北斗は懐から短刀を抜いた。


「打ち式、返し式、まかだん国、けいたん国と七つの地獄へ打ち落とさん、奄、阿毘羅吽欠娑婆呵!!」


 墨曜道外法、生霊返し。呪力を込めた短刀で、北斗はエフィリムに見立てた撫物を一思いに縦に切り裂いた。背後で頭を押さえて断末魔の悲鳴を上げるエフィリムの顔面が血に染まる。




 術が、効いた。


 殺生は好まぬが、これは入らぬだろうなあ。


「奄 嚩日羅摩 入嚩羅 菩提質多……南莫三満多 嚩日羅喃 戦撃 摩訶沙撃薩」


 仏敵退散の戒雷が、エフィリムの全身を直撃した。宝慈の繰り出す曼華経の折伏呪法には、観音のような彼の表情のような、容赦はなかった。


 印を組み、さらに組みなおし、半眼の彼方にエフィリムを見る。気息が三昧サマディに入る宝慈の観想を助け、エフィリムを打つ。


「奄 達磨矜羯磨 底瑟叱日羅 奄 羯磨制吨迦 嚩 発叱喃……莎訶!!」


 エフィリムの足元から立ち上る業の雫は空中で不動明王の像を生み、その諸力は調伏の呪力をそのままエフィリムに浴びせかけた。


 全身の皮膚が裂け、赤い霧が辺りを染める。先刻の術ど同程度の衝撃波を浴び、エフィリムは何とか足を踏みとどまらせた。


「ぎいィィ……ッ!」


 手の中に闇色をした剱を生み出したのは、渾身の意志を込めた反撃の呪法。しかしそれを投じるよりも早く、エフィリムの乳房ごしに右の胸を飛来した刀が貫いた。


 呼気を半ば強制的に吐き出させられたエフィリムの視界に、浄眼を持つ修羅の巨躯を持つ宗盛の姿が入った。


「貴様だけは、許しておけんよ」


 ぐっと太い指で空を掴み、ぐいと何かを引き出すように肘を曲げた。するとまるで見えぬ糸で繋がっていたかのように、エフィリムの背中までを貫通していた刀は宗盛の手の中に戻された。ぱっくりと開いた傷口から血潮が噴出すが、それでは終わらぬ。


「よう、やってくれたなぁ?」


 いつの間にか懐に飛び込んでいた圭太郎が、にやりと笑った。


「北斗のあんちゃんが不動明王呪かぁ……んなら、わいはこれでいくで?」


 右手に握っていた独鈷杵を、躊躇いもなく腹に突き立てる。手首までを新鮮な血液で染めながら、圭太郎は少年とは思えぬまでの気迫で真言を紡いだ。


「奄 遜婆 儞遜婆 吽 嚩日羅 吽 発叱」


 臓腑を抉るほどに杵を突き入れ、エフィリムの体内に呪力を解放し、次いで鍛え抜かれた脚力で後ろに飛ぶ。ぼたぼたと吐瀉物と喀血を唇から漏らすエフィリムの頭上で、何かが光った。


「蟇目射る 神の御前ぞ古狐 早や立ち返れ 元の古巣に」


 梓の祝詞が神力を喚起、降り注ぐ浄閃がエフィリムの躰に残る写本の力を奪い去っていく。数々の呪法を浴び、写本を引き剥がされた今、その躰は九朗との戦闘によって疲弊し切った、脆弱な躰でしかなかった。




 がくりと前のめりになるエフィリム。


 そのとき、紅と紺、二条の閃光が走った。


 右からは綾瀬、左からは光照。互いに抜刀の態勢から繰り出される、疾走からの居合い術。僅かに高低差をつけることで、互いの刃を交わらせない絶妙の呼吸で、両者が交錯する。


 綾瀬の刃が胸から喉。光照の刃が肩から腰。


 表裏に交差する太刀筋を浴びせかけられたエフィリムは、そのまま限界を迎えるかと思われた。




 だが。


 追い討ちをかけるかのように、アレクセイがタロットをかざしたときであった。


 先刻失われたはずの黒い翼が再び中空から出現し、満身創痍のエフィリムをいたわるように包み込んだのだ。


 予想外の介入に、誰もが身を硬くする。


 現れたのは、黒衣の青年。シャトー・ムートン・ロートシルト。


 空間を歪ませ、実体化を完了する前に、攻撃圏内に捉える三つの動きがあった。


 舞、鬼哭、沙嶺が、それぞれの妖の術によって繰り出す爪撃、刀撃、四橛の悉くを受け流し、シャトーはエフィリムを闇の中に投じる。


「邪魔立てを!」


「僕の計画はこれで終わりじゃない。ここは仕切りなおさせてもらおう」


 ぐるんと翼はシャトーをも包む球体の障壁となり、それは闇を宿しつつ、速やかに空間から消えた。


 


 


 どれくらいの時間が経っただろうか。


 誠十朗の傍らにいた北斗が、顔を伏せて立ち上がる。


 既に彼の躰から魂は去ってしまっていた。


 その魂の行き先は、手の届かない大陸の神の山であろう。全てが終わり、全てが奇妙な脱力感に包まれたとき。


 


「済まない。ずっと、俺は」


 沙嶺が、口を開いた。




 櫻の花弁がひとひら、舞っていた。

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