第三十九章第二節<セフィロトの間>

 それは奇妙な光景であった。


 綾瀬が落ちた先は、奈落ではなかった。暗闇が続くその場には、しかし確かに足場があった。視線を俯けてみても、何も見えぬ。だが、光源はあった。


 紫、紅、朱。それらの光は互いに仄かに灯り、淡く周辺を照らしているにとどまっている。


 光はどうやら、一箇所に集中して存在するらしく、光から遠ざかればそこにはもう、闇が静かにたゆたっているに過ぎぬ。


 そして、光の中に、エフィリムはいた。


 綾瀬は宗盛を横たわらせると、ゆっくりとではあるが歩みを始めた。


 エフィリムがその動きに気づき、踵を返した。


 額に浮かぶ、複雑な魔術の紋様。近づくにつれ、彼女の足元の光が何かの文字を表していることに、綾瀬は気づいた。


 知るものが見れば、それはセフィロトの木と呼ばれる図形であったが、無論綾瀬は知る由もない。


「生きていたね」


 男とも女とも取れる、短い髪をした中性的な顔に微笑を湛え、エフィリムは声を放つ。


 それに綾瀬は答えなかった。代わりに腰に吊った太刀の柄を握り、抜刀の態勢を取る。はらりと前髪が額に係り、視界の中に緩く弧を描く髪がぼやけた。


「如何に魔術の心得のないお前でもわかるだろう……私ははや人ではない。お前たちの敵う相手ではないのだよ」


「言いてえことはそれだけか」


 英霊の爪に抉られた肩が疼く。だがそれすらも、綾瀬の動きを妨げるものとはならなかった。


 膨れ上がっていく、綾瀬の剱気。それが耐え難いほどになり、疾走と抜刀として弾けようとした、刹那。


 光の中に、浮かび上がる人影があった。


 沙嶺、宝慈、北斗。


 圭太郎、梓、雅。


 舞、鬼哭。


 ユリシーズ、ルスティアラ、アレクセイ。


 その誰もが、エフィリムに対して凄まじき闘気を剥き出しにしていた。


「おやおや」


 ばさりと翼を打ち振るい、エフィリムはたまらずに笑い出した。


「お前たち、そこまでして死に急ぎたいか?」


 同じく、静寂のみがあった。己の声の残響が消えやらぬうちに、エフィリムは白い腕を頭上に伸ばす。


「ならばくれてやろう……写本の力、その身で知るがいい」


 翼の何処かに隠されていたのか、突如として無数の茶褐色に染まった写本の古紙が装丁を離れ、エフィリムを囲んだ。


 その中の一枚を指差すや否や、エフィリムの瞳の色が変化。


 凄まじい速度で呪力が収斂する。


 剱を持つものは走り、呪を修むる者は瞳を閉じる。天沼八幡で感じたときの脅威とは、恐らくは確実に比べ物にならぬほどの術が来る。


 それを肌で直感している者な尚更、走る足に力を込める。


 まず、エフィリムに到達した攻撃は雅の銃弾であった。しかし恐るべき破壊力を秘めたその弾丸は、まるで不可視の壁に命中したかのように、僅かに空間が揺らしただけで蒸発。それへの防禦に、エフィリムは毛ほどの魔力すら費やしてはおらぬ。


 続いて綾瀬と鬼哭の太刀が、左右からエフィリムに襲い掛かった。しかし刃がエフィリムに届くよりも早く、鋼鉄のような感触を与える翼が翻り、二人の躰を弾き飛ばす。


 ぱん、と手が打ち鳴らされた。


 頭上に白い光が生まれたと思われた瞬間、包囲していた者らを殲滅するだけの衝撃を伴った光の波動が、彼等に浴びせられた。


 誰一人として、立っていられる者はいなかった。見えぬ地面に叩きつけられ、起き上がろうとすればさらに強い力で圧を受けた。全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げるほどの圧力。その只中で、翼を持つ魔女、エフィリムだけが薄ら笑いを浮かべている。


「このまま、骨を砕いてやってもよかったんだけれどねぇ……手加減をしても、お前たちには十分すぎるだけの効果があるってことが分かってよかったよ」


 素足が地に接し、エフィリムが音もなくセフィロトの木の上に降り立った。


 圧力から解放され、誰からともなく、痙攣する手足を支えにして立ち上がる。


 銃弾も、剱も通用しない。恐らく、そしてこれだけの魔術を繰り出す相手に、自分たちの操る呪術が功を奏するとは思えぬ。


 万事休すか。


 いや、まだだ。躰は動く。痛むが、まだ無事だ。元より、無傷で立ち向かえる相手であるなどとは思っていない。その気力に満ちた眼差しに、エフィリムは冷めた表情で首を横に振った。


「なら、見せてやろうじゃないか」


 細く美しい指先を閃かせ、エフィリムはユリシーズに腕を伸ばした。


 まさか、そのような手段に来るとは思っていなかったユリシーズの反応が遅れる。


 首を掴まれ、そのまま気管を潰されながら上へと掲げられる。喉に体重がかかり、息が詰まった。


「ほぉらね、こうしているだけで、お前たちは死んでいく……だけど、それでは面白くないね」


 鬱血し、どす黒く染まっていくユリシーズの躰が、びくりと大きく痙攣した。掴んだ掌から、エフィリムはユリシーズの首に向け、衝撃を放っていたのだ。頚椎が折れる寸前まで揺さぶられ、ユリシーズの口の端から泡が零れ、脱力する。


「エノクの魔術を修めたとはいえ、所詮は人……呆れるまでに弱すぎる」


 エフィリムは、腕に力を込めると、ユリシーズの躰を頭上に投じた。既に意識のない躰は、弛緩したまま人形のように弧を描く。


 そのときであった。


 エフィリムの視界から消える角度にいたルスティアラが、水の精霊力の喚起に成功していた。そのまま渦を巻く水流によってユリシーズを救出しようとするが、エフィリムの術のほうが早い。水を四散させながら、大地から紫の剱が切っ先を突き上げるようにして、ユリシーズの躰を貫いたのだ。


 耳を聾せんばかりの絶叫が響く中、ユリシーズは瘴気の流れによって空中に縫いとめられてしまう。


「さあ、よく見ておくがいい。これが貴様たちの末路だ」


 右手を後ろに引くや否や、その指には身長を遥かに越えるだけの禍々しい力を宿した槍が握られていた。紫の炎と黒い霧を纏うその穂先で突かれれば、どうなるかなど、考えるまでもなかった。


 既に瀕死の状態にあるユリシーズには、魔力の束縛を解くことも出来ぬ。絶望と苦悩に染まる表情にエフィリムは喜悦し、そして右腕を振り抜く。




 さながらゴルゴダの丘にてイエスを貫いたロンギヌスの槍のごとく。




 だが、指はそのままであった。


 やりは投じられることはなく、いまだエフィリムの手の中にあった。意思に反して動かなかった己の指に、エフィリムは魔力が絡んでいることに気づく。


 これほどまでに絶妙な間合いで繰り出した術など、あるわけがない。


「そこまでだ」


 闇の中より、闇が喋る。かつん、と靴音がした。


「退け……さもなくば、手加減はしない」


 右手に刀印を結んだ誠十朗が、ゆっくりと光の輪の中に姿を現した。

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