第三十九章第一節<黒き堕天使>

 異界の中枢。


 地震と荒れ狂う光の柱が現れてから、ほどなくそれぞれの階層にいた者らは、ここへと集まってきていた。


 カイーナ、ジュデッカ、トロメア、アンティノーラ。それぞれの異界を駆け抜けてきた者たちが、光の柱を挟んで邂逅する。


 だが、今はまだ、気を抜く時ではなかった。誰もが、大きく抉れた大地の底にいる、一人の女を見据えていた。


 エフィリム・アルファロッド。光の柱に取り込まれもせずに、その傍らで幽鬼のごとくに立ち尽くしている。


 しかし、誰もが動き出せずにいた。


 理由は明白、光の柱からは凄まじい呪力の波動を感じる所為であった。迎え撃つ側であるエフィリムであるならば、そこに罠を仕掛けていてもおかしくはない。自ら相手の手の内に飛び込んでいくような、愚を犯すような事はせぬ。


 だが、時間がない。このまま放置していては、異界を離脱する機会を探す前に、エフィリムを倒さなければ、あの悪夢がまた。




「遅い」


 エフィリムの呟きが、誰かの耳に届いたのかどうか。


 はっと見上げる先で、光の柱が唐突に歪んだ。


 いや、分岐したのだ。


 まるでそれは神話の中の暴龍のごとく、四つの頭を持つ龍はそれぞれの異界に頭をもたげ、そしておもむろに地殻を貫いた。


 それが何の意味を持つ行為なのかも分からぬままに、しかし彼らはエフィリムから視線を離せないでいた。ぐらりと上体を起こすと、エフィリムは光の柱に腕を伸ばし、肘までを差し入れる。




「地面が!」


 引き攣った雅の声に、沙嶺は驚いて背後を見た。光の龍に貫かれた岩盤には無数の亀裂が走り、それは加速度的に大地を削り取っているのだ。


 もしこのまま、自分たちがいる場所の岩盤が砕かれたなら。


「あんちゃん、あれ!?」


 圭太郎が、エフィリムの異状に気づいていた。長衣をなびかせ、至近距離からあれだけの呪力を浴びながら、彼女の口には笑みさえ宿っていた。


「何をする」


 喘ぐようにアレクセイが呟いた。エフィリムの長衣の下で、何かが蠢いていた。


「最悪だ」


 舞が、吐き捨てるように言葉を漏らす。


「如何に魔道冥府に堕ちようとも……あそこまでの外道など、見たことがない」


「まあ、そう言っても始まらないさ」


 光照は前髪を掻き揚げ、そして一部始終を、じっと見つめた。





 髪が暴れ狂うような風と光の中、エフィリムの長衣は引き裂かれた。白く美しい裸身が垣間覗き、そして背から溢れんばかりの黒い塊が噴出する。


 それは翼であった。人でありながら、契約した魔の影響で、エフィリムは生きながらの異形と化していた。


 だがそこに自我の喪失が起こりえなかったのは、既に二冊の写本を取り込んでいたからか。


 二冊が三冊に。紫の園、偽りの光、そして第三の写本 息衝く城が今、エフィリムの手に渡った。


 翼は六枚、計三対。生え落ちたばかりの翼は、しかしその役割を心得ているかのようであった。


 最初は緩慢に、そして次第に力強く、打ち振るわれる。中枢において、その翼が巻き起こす風が渦を巻き、エフィリムのつま先が大地を離れた。


 顔が上がり、そしてエフィリムはかつての同胞と怨敵を共に見やる。


 既に自分は人ではない。人としての力を超え、人としての形を捨てた。最早、あれらの脆弱な術師らに頼ることはない。何故なら、写本は無事、手に入ったのだから。このまま、溢れんばかりの魔力を振るい、奴らを殲滅させてやればいい。互いに共鳴している写本は、新たな同胞を求める指針としての働きを十二分にしてくれることだろう。


 何処か遠い世界にいるであろう、残る四つの写本を求める。そして、七つの写本を手にし、人がなし得なかった叡智を手に入れるのだ。


 古き神々を育んだ王国、セプラツィカードの鍵を手に入れるために。


 光の龍に臓腑を食い破られているがごとくに、大地が揺れ動き、崩壊を続ける。


 打つ手はないか。このまま、自分たちは異界で命を落とすしかないのか。


 エフィリムの覚醒に応じ、光の柱と四頭の龍は次第に細く、消えやっていく。




 汗に塗れ、綾瀬は緩やかに舞い上がるエフィリムを見上げた。


 ぐったりとした宗盛は、息はあるがまだ意識を回復せぬ。腕に抱え、ありったけの憎悪を込めて、綾瀬は見上げた。


 あれが俺たちの国を破壊しようとした、女か。


「くそったれが……!」


 肩に宗盛を負い、そして残る指で刀の柄を握る。


 綾瀬の視線と、エフィリムの視線が交わった。


 それは地母神の如き優しさと、戦乱の女神にも似た冷酷さを併せ持つ、不思議な瞳。


 綾瀬のいる大地は、いつの間にか砕け散っていた。既に亀裂は大地を過ぎ、中枢にまで及んでいる。



 嗚呼。


 綾瀬は躰から重力が失われるのを感じた。


 吸い込まれる。落ちていく。


 だが決して、瞳は伏せぬ。


 虚空に身を躍らせながらも、綾瀬は最後の瞬間まで、しっかりとエフィリムをねめつけていた。


 不思議と、恐怖はなかった。

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