第三十八章第三節<Aethnici>
誠十朗が語り終えてからも、誰も口を開こうとはしなかった。
開国と文明開化から十年、その結果として煌びやかな壮観を呈することになった帝都東享は、誠十朗にとっては薄ら氷の上にある楼閣に過ぎぬ。そしてその薄ら氷を支えているのは、自分たちであるという思いがずっと苛んでいた。
氷にはひびが走り、ささくれ立ち、それが支える掌を傷つける。
そして誠十朗はついに、支える手を引くことを決意したのだった。結果として、帝都を崩すことと同時に、自分の上にも無数の瓦礫が降り積もることを覚悟して。
そのとき、宝慈がゆらりと前に進み出た。
錫を手に、じっと祈るように瞳を閉じて話を聞いていた宝慈。巨躯に似合わぬ柔らかな表情と物腰は、相変わらずであったが。細く開かれた瞼の奥の瞳には、強く射竦めるような光があった。
「兵を退いてはくれんかなぁ。これ以上、あんたとやり合う心算はないよ」
「そうだろうよ」
真の闇の濃さと冷たさを知らぬお前たちに、悲しみなど分かってたまるか。俺の躰を苛んできた、数限りない慟哭など、お前たちのようなぬるま湯に漬かっている連中になど理解できぬはずだ。
俺は、帝都を壊滅させる。そして、日本を潰す。
あとがどうなろうと、知ったことではないのだから。
「ああ、俺はあんたと戦う心算はない。あんたにだって、俺と戦う理由などないだろう?」
「なにを……!」
懐柔しようというつもりか。そう理解した誠十朗は、頭に血が上るのを感じた。
「坊主に何が分かるというのだッ!」
指に挟んだ呪符をつきつけ、誠十朗はよく通る声で血を吐くように叫んだ。
「貴様らが民を救うなどというのなら、まずこの俺を救ってみろ!」
宝慈はその訴えを黙したまま聞いていたが、やがて静かに言葉を続けた。
「誠十朗、お主は救いと何と心得る」
何をわかりきったことを、と誠十朗は宝慈に胸をそらせた。
「この期に及んで言い逃れか? もし御仏の救いあるならば、この苦悩を取り去ってみろと言っているのだッ!」
しゃらん、と錫が鳴った。
「もう一度、己の道を見返してみろ」
宝慈は、錫の鉄環を持ち上げ、誠十朗へと向けた。
「お前の語った道の中で、お前にもたらされた救いから目を逸らすお主が、何を言うかッ」
一対の視線が交錯する。
誠十朗はいつでも呪符を投じる準備は出来ていた。だが、宝慈の言葉によって、誠十朗の中に一欠けらの迷いが生まれていることも事実であった。
俺の道に、救いがあっただと。家族を奪われ、家を奪われ、そして愛しい妹まで殺された俺に、救いなどあろうはずもないではないか。全ては日本国政府の、列強に対する脆弱な対応が招いた損失が、俺に降りかかってきたのではないか。
「救いとは、無力な者が、道を閉ざされ、混迷し、そして仏に求道を仰ぐということだ」
宝慈は、淡々とした口調で語り始めた。
「己の力ではどうにもならぬ、しかし力の全てを使い果たした者が御仏に縋る、それこそが他力本願という救い」
しかし、お主は御仏の救いを求めるよりも先に、すべきことがあるであろう。
「お主に方術を授けてくれた御老体の真意を、お主は考えたことがあるかあ?」
路頭に迷い、薄汚れた兄妹の二人連れなど、別に放っておいても文句を言われる筋合いはない。それなのに、どうしてその老人はお前に方術を授けたというのか。
物好きの一言で片付けてしまうなら、お主には御仏の救いを求める資格はない。その老人こそが、お主にとっての救いを与えてくれた、御仏の御姿ではなかったか。
大陸呪術という力を持つお主ならば、まずはその力を使ってみよ。方術を駆使し、生きてみよ。人よりも幸薄きお主だからこそ、人にはない力を求められたと、考えることは出来ないか。
その力を復讐のためだけに使うのだとしたら。
「喧しいッ!」
ぎりりと奥歯を軋らせながら、誠十朗は宝慈の説教をかなぐり捨てた。
「ならば、この力が救いならば、俺の救いは日本国の滅び、ただそれのみ」
「誠十朗!?」
戦いは避けられぬか、と光照が身構える。
宝慈もまた、錫を持ち、間合いを取った。誠十朗が符術を放つか、それとも舞が、光照が、宝慈が、何かの動きを見せるか。
突如、両者の間隙に炎が噴出していた。
人の背丈ほどもある、紅蓮の炎。それが、岩肌の露呈させた大地から、何の前触れもなく出現したのだ。
誰かが術を使った形跡はない。その場の全員の瞳が、炎に注がれている。
驚愕と、困惑に揺れる視線。
否、それは一人という例外を除いてであった。
ユリシーズだけは、その炎を至極当然という瞳で見つめているではないか。そして誰もが目を奪われている、そのとき。
「スズ、か?」
誠十朗が、何者かの名を呼んだ。まるでその言葉に導かれるかのように、激しく渦を巻く熱と光の只中に、僅かな陰影が浮かぶ。
それは見る間に形を取り、伸び上がり、人の形を成す。
「お前の妹は、今のお前の姿を望んでいたと思うか?」
そのときになって、はじめてユリシーズは口を開いた。
軽く拳を固めながら、ゆっくりと炎に見惚れる誠十朗に近づいていく。
「これは」
貴様の幻術か、ということはできなかった。幻術でもいい、もう一度妹に会いたい、という思いが交錯していたからだ。
「アエトニキ。西洋ではたびたび、死者の霊は炎を介在して現れるとされている」
ユリシーズは、文字通り揺れ動く誠十朗をじっと見つめていた。炎の中の少女は、何処か悲しげな表情のまま、誠十朗を見返している。
「今のお前は、憎しみと怒りで薄汚れてしまっている、それが耐え難いと、妹は嘆いているな」
「いや……いや、だが、俺は」
ユリシーズは、一度炎の中の少女に目を向け、そして静かに、呟いた。
「あの嵐の晩、妹が息を引き取るまで抱きしめてくれたお前を感謝こそすれ……復讐の鬼となることを、妹が望んでいたと思うか」
誠十朗の膝が折れる。
指は震え、漆黒の呪符は地に散った。
あの夜の、自分と妹しか知らぬ、別れの夜の呟きを、誠十朗はしっかりと耳にしていた。
自分の幸せを祈る妹の言葉に、ただ泣き崩れ、嗚咽を漏らすことしか出来ぬ自分の不甲斐なさを悔やむ震えが、今再び誠十朗を襲う。
その場に崩れた誠十朗の慟哭が、辺りに響き渡った。
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