第三十八章第二節<闇色の道士>

 誠十朗の生家は、織物によって生計を立てていた。


 母親の織る反物は麗錦うるはにしきと呼ばれ、近隣の町でも評判であった。


 父は行商となり、母は反物を織る。誠十朗はよく、父親と一緒に街へと足を運んだ。幼い頃は、農村にはない珍しい物品や人種に心を躍らせ、そして成長してからは野良仕事の気晴らしに父親の商売を手伝ったりもしていた。


 誠十朗には、三つ下の妹がいた。


 妹もまた、母親の自慢の反物には憧れを抱いていた。いつか自分も、母親のような素晴らしいものを作り上げたい、と願っていた。農作物以外にも収入があった誠十朗の家は、他の家よりはやや蓄えがあり、そして生活も楽であった。


 しかし同じ村の中で、父も母も気前がよい性格のため、感謝はされど陰口を叩かれることはなかった。よしんばあったとしても、それが一家に届くよりも早く、他の家々によってその雑言は打ち消されてしまっていた。


 そうした生活の中で、誠十朗は夢を持っていた。


 農家としてではなく、商人になりたい、と。街に行くたびに、人々の口に上る話題は、幕府から明治政府へと変わっていく世の中への期待と不安であった。


 それが一層、誠十朗という少年の夢を、膨らませていた。


 十の年までは、それでよかった。


 一八五八年、日本は米、英、蘭、露、仏と修好通商条約を締結する。


 しかしその内容は、対外的な日本の地位を貶める不平等条約であった。中国同様の不平等条約は列強諸国と日本との国力差を浮き彫りにするのに十分すぎた。


 かろうじて日本がそれに対して一石を投じることに成功したとすれば、それは列強との貿易を開港場に限定し、国内における外国の行動影響範囲を限定させたことであっただろう。


 だが、それだけで話は終わらなかった。


 それまでは自給自足的経済環境に置かれていた日本にとって、突然に外国との流通経路が開かれたといっても、それを十分に活かしきることは困難であった。輸出産品などあろうはずもない日本において、諸外国が目をつけたのは生糸であった。外貨獲得の唯一の手段である、生糸輸出に躊躇いを感じた者がいるとすれば、その者には先見の明があったというべきであろう。


 生糸は輸出品目の筆頭を締め、一時期では輸出額の八割を埋め尽くすに至った。


 それにより、今までは江戸を経由してきた生糸が、確実な富をもたらす横浜に流れを変化させたのは、当然であっただろう。物資の流れの変更により、瑿鬥えどにおける物価が高騰、同時に国内産業に回される生糸の量は激減した。


 織物産業の名産地として有名な西陣、桐生、足利においてすら、壊滅的な打撃を受けるほどの状況で、誠十朗の家に回る生糸などあろうはずもない。


 幕府の経済官僚は一八六○年、五品江戸廻送令によって生糸を含む品物の流通経路を指定しようとするが失策。




 そんな中、誠十朗の一家が受けた打撃は目を覆うものがあった。


 母親は慣れぬ畑仕事によって過労で倒れ、病床から起き上がることはなかった。父親もまた、ある日まとまった金を二人に残し、姿を消した。


 二人の親が続けて倒れ、姿を消し、誠十朗と妹は困窮に喘いだ。


 しかし、世間の波を泳ぎきるすべもない子ども二人だけで生きていけるほど、甘くはなかった。


 誠十朗は、血路を中国に見出した。そして手にした有り金をはたき、ついに中国に密航することに成功した。


 だが中国に渡っても、やはり現状に変化はなかった。


 次第に混迷する二人は、だが一人の老人と出会う。


 老人は誠十朗の才覚を見抜き、道教の方術を教えた。他に道がない誠十朗は、老人の教えを忠実に守って着実に力を身につけていったが、その頃妹は躰を壊してしまっていた。重なる心労と栄養失調によって倒れた妹を救うには、まだ誠十朗の方術は未熟であった。


 薬を買えるだけの金もなく、他に手のない誠十朗が悩む間にも、妹の病状は次第に悪化していった。


 そして、ある夜。誠十朗は再び日本に帰る決意をする。


 妹の病態は誠十朗の目にも明らかであり、妹がもう一度、日本に帰りたいと切に願ったためであった。夜のうちに誠十朗は師である老人に謝礼の手紙を書き、そして再び日本へと戻る。


 しかし入国をしようとする誠十朗に対して、日本国の門が開かれることはなかった。


 身よりもなく、そして明らかに貧しい身なりをしている二人を、入国管理の役人は中国孤児であると信じて疑わなかった。


 横浜に拘留されて三日。故郷の土を踏むことなく、妹は病に身を投じた。


 誠十朗、十六の年。




 開国の裏に潜む、暴虐な運命という名の奔流は、誠十朗の人生を大きく歪めてしまった。


 母親、父親、そして妹。二度と戻らぬものを全て奪っておきながら、日本政府は誠十朗を歴史の襞の狭間に消し去ろうとしていた。


 拳を濡らす涙が血に変わることを、誠十朗は最早躊躇いはしなかった。老人から学んだ方術は、誠十朗の意志を裏切ることはなかった。数々の神々を使役し、誠十朗は己を闇の中に潜ませつつ、ただ息を殺して待ち続けた。


 煌びやかな西洋文化を身に纏い、店頭に並べ、そして見目麗しき西洋人らの闊歩する、横浜、東享。


 その代償を、日本政府は誠十朗のような者を見殺しにしたのだ。


 彼の胸中に渦を巻く怒りは怨みとなり、邪念を生んだ。


 その連鎖は非常に明快であり、また速やかに行われた。


 再び、誠十朗が帝都を見るとき、既に彼の目は帝都を流れる霊気を読み取っていたのだ。

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