間章ⅩⅩⅩⅦ<数多の縁>


 話を聞き終えた宗盛は、縁、とだけ呟いた。


 綾瀬は、その意味が分からなかった。だが宗盛の脳裏には、思い出の中でしか最早見ることのない、妻の笑顔が、燦々と降り注ぐ温かな陽光の中で囁いた一言が蘇っていた。


「ようやっと、寄り添うことができます」


 妻はそう呟いて、宗盛の肩に頭を乗せた。


 美しく梳られた、滑らかな髪に触れ、宗盛は笑っていた。


 現に、お前はこうして俺のところへ嫁いだのではないのか、と。こうして暮らしていながら、まだ実感がわかぬのか、と聞き返したこともあった。


 それに対し、妻は何も言わず、ただ満ち足りた笑顔をもってのみ、応えていた。それもまた、縁。




 今なら、宗盛は妻の気持ちが、痛いほどによく分かった。


 嫁いだからといって、その相手が自分を理解してくれるなどと決まったわけではない。いや、むしろそうでないこともほうが、多かったのではないか。


 男尊女卑の世界において、妻を人として扱わぬ者すらいる世の中で、嫁ぎ先が安住の地であるかどうかなど、男の視点からでは推し量れぬ。


 その中で、妻はそう呟いたのだ。


 嫁いだ相手が、あなたで本当によかった。恐らく、妻は心からの安堵を、その言葉に乗せていたのだろう。そうでなくとも、妻は幼少時からその不思議な力によって、白眼視されることが多かったに違いない。


 理解の足りぬ世の中にあって、そして迷信深ければ、妻の家族もまた、自分たちの娘でありながら、妻を蔑視しなかったと言えるだろうか。


 そんな境遇の末に、巡り合った自分を、妻は心のよりどころとしてくれた。その言葉に込めた気持ちを、自分はあの時、汲み取ってやれなかった。


 しかし、そのようなことなど、妻にとってはどうでもよかったのだ。理解されなかったとはいえ、宗盛の心優しい性情に変わりはない。そしてそれ故、自分は心穏やかに、日々を送ってゆけるのだ。妻は己の幸福と、そして宗盛への感謝の情を込めて、そっと囁いてくれたのだろう。




 縁が、自分と妻とを巡り合わせたのだ。そして縁が、自分から妻を奪い、瀕死の自分と誠十朗とを出会わせた。


 人は生きるうえで、数多くの人間と擦れ違う。その中で、互いに足を止め、相手の顔をまじまじと見つめることが出来る縁を持つことは稀だ。そして、その中からさらに、己を高め、支え、そして力となってくれる者の縁は、限りなく少ない。


 少ないが、全くないわけではない。我々は、そうした限りなく少ない、貴重な縁を追って、生きているのではないだろうか。


 または、貴重な縁を育てるために、日々を暮らしているのではないか。




「お前と出会ったのも、やはり、縁」


 宗盛は、綾瀬に向き直ると、短く呟いた。


「同じ武人であるお前を、軽蔑する謂れなど、ないように思うが?」


 綾瀬はもう一度、正光を見下ろした。


 既に事切れ、徐々に冷たい塊となっていく男について。


 正光は、如何なる縁を手にしていたのだろうか。彼の縁は、彼を救う力とはなりえなかったのだろうか。


 今となっては、それももう確かめるすべもない。


「じゃあ、な」


 ただそれだけを言い残すと、綾瀬は背を向ける宗盛に振り向いた。


「すっかり手間取っちまったな……行こうぜ」


 異界の中心へ。


 だが、その呼びかけに宗盛は動こうとはせぬ。


 背を向けたまま、微動だにせぬ。


「おい」


 言葉を続けることは出来なかった。次の瞬間、宗盛の体躯はぐらりと傾ぎ、そして地響きすら立てるかと思えるほど激しく、倒れた。


「宗盛?」


 慌てて駆け寄る綾瀬は、宗盛の躰が危険なまでに冷え切っているのを知った。


 なんだって、突然、こんな症状に。


 悪態と共に吐き出した綾瀬は、そのとき、宗盛の変調の原因を目の当たりにした。


 背中から生え出るように突き刺さった、漆黒の鷲の羽根。確か、田安門で弱まってきていた宗盛の邪気を活性化せんと英霊が放った呪詛の羽根が、まだ力を及ぼしていたのだ。


 急いで引き抜こうとする綾瀬の指の間をすり抜け、黒い羽根は宙に溶けるようにして消えた。


「くそ!」


 あの男め、とんでもない置き土産を残していきやがったか。


 宗盛の状況は、一刻を争う。どのような対処が最も有効であるのか、そのようなことまでは綾瀬には分からぬ。


 しかし一つだけ言えることは、この場所に宗盛を置き去りにすることはできないということであった。


 意を決すると、綾瀬は宗盛の腕を肩に担ぎ、そして腰に力を入れてぐったりとした巨躯を持ち上げる。


 ずしりと肩にかかる重量は予想以上で、先刻の戦闘の際に受けた傷がさらに痛んだが、そのようなことに構ってなどいられなかった。


 宗盛を担いだまま、綾瀬は果て無き程に思える道に、一歩を踏み出した。

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