第三十七章第三節<汗と、涙と。>
梅沢家は、光仁天皇の時世において、内裏の警護を仰せ遣ったことにより、急速にその名を強めていった武家の一つであった。
しかし、表立った警護ではなく、代々引き継がれてきた技が示すように、主に天皇の霊的警護を担う、特殊な任を背負っていたのであった。その後においては、桓武天皇が長岡京を捨て、
その家筋に生を受けた綾瀬は、幼少時より童子斬としての技を叩き込まれていた。しかし、その運命は彼が次男であったことによって、大きく変わることとなっていった。
通常、そうした門外不出の奥義を授けられるのは一子相伝。つまり、童子斬の技と梅沢家を背負うのは、綾瀬の兄、鹿央であったはずなのだ。
綾瀬が十二の年。練武場の傍らにて、汗の噴出す躰を冷やしていた綾瀬はふと顔を上げた。
風に乗って、女が使う香が流れ、鼻腔をくすぐったのだ。
家には女はいない。母親は綾瀬が六つの時に、この世を去っていた。ついぞ嗅いだことのないその香りの源は、すぐにわかった。
母屋へと続く道を、一人の女が歩いていたのだ。
見知らぬ女。だが、視線を交わした綾瀬に、女は艶やかに微笑みかけた。
綾瀬はその瞬間、躰の中心を悪寒が走りぬけるのを感じた。それ以上、視線を向けていること自体が、たまらなく嫌になった。微笑に応えることはなく、綾瀬は練武場にとって返した。
女は、それ以来、梅沢家に度々出入りすることになった。
綾瀬は父親にも、鹿央にも、女のことを尋ねた。尋ね、詰問し、そして最後には罵りの言葉になった。しかしどちらに尋ねても、満足のいく答えが戻ってくることはなかった。
綾瀬は、母親を好いていた。だから、母親を失った今、家の中に異質な人間がいるということ自体が、許せなかったのだろう。
女が何者であるにせよ、この家にいる見知らぬ人間は、綾瀬にとって排除すべき人間であった。そして、それを受け入れてしまった父親も鹿央も、綾瀬には理解できぬ、そして同意できぬ思考であった。
それから、数年の歳月が流れた。
女は愈々梅沢家に入り浸るようになった。日によっては、数日の間、滞在することもあった。そうした時間、父親や鹿央が女に対し、にこやかに接すること自体、唾棄すべき行為に思えた。
綾瀬、十六の年。それは雨の晩であった。
そのくらいの年になれば、綾瀬とて自分が次男であることが何を意味するのか、誰に教わるでもなく、父親の言動から感じていた。そして同時に、激しい焦燥感と自暴自棄に襲われることもあった。
自分が今まで積み上げてきたのは、何のためか。家を継ぐことが出来なければ、それまでの努力は何の意味もないことになるではないか。それまで、父の言葉を絶対としてきた俺の生き方は、何であったのか。そもそも、家を継がせることのない俺に、そうした生き方を強要したのは、他ならぬ父ではなかったか。
そうした疑念を打ち消すために、綾瀬はその晩、自虐的なまでの鍛錬をただ一人、黙々とこなしていた。
外は雨。雨音が全てを包み込み、瞳を閉じれば水音の牢にでも戒められたかのような、感覚を覚える夜。
幾度となく酷使された躰は、夜半を過ぎてついに悲鳴を上げた。滝のように流れ落ちる汗と痛みすら覚える躰に、綾瀬は練武場の中央に腰を下ろした。
雨音に包まれていた綾瀬の耳に、そのとき、人の声が飛び込んできたのだ。半ばかき消されながらも、それは綾瀬の全身を総毛立たせるには十分であった。
女の声。しかも、それは嬌声と呼ばれる類のものであった。
綾瀬はにわかに鎌首をもたげてくる疑念に対する確固たる証拠を求め、雨の降りしきる中、練武場を飛び出した。
母屋へと続く道を走るにつれ、声は父親の寝室から漏れてきていた。
障子を開くまでもなかった。父親は、あの女と交わっていたのだ。
綾瀬はその場にしゃがみこみ、そして吐いた。躰の痙攣がやむと同時に、こみ上げてきたのは激昂。
綾瀬は練武場にとってかえすと、木刀の中にただ一振りのみ置かれている刀を手に取った。だが練武場を飛び出した綾瀬は、自分の前に鹿央が立ち塞がっているのを目の当たりにした。
その瞳は濁り、そして虚ろであった。
それからの出来事を、綾瀬は思い返せずにいた。
気づいた時、綾瀬は血に濡れた刀を手に、父親の布団の傍らにいた。外には倒れている鹿央、そして布団の中には眉間を割られた父親。
女の姿は、どこにもなかった。ただ、畳の上には女物の帯が残されていた。
それを手に取った時、綾瀬は怖気が走り、そして帯を刀で引き裂いた。
帯の中に綾瀬が見たものは、錦に混じるように編みこまれていた、人の髪であった。
「その夜のうちに、俺は家を飛び出してたんだろうよ」
気づけば、家宝の太刀を手に、草叢の中に蹲るようにして眠りに落ちていた。
兄殺し、父殺し。親族を殺した罪は、他の何よりも重い。
「親殺しの罪を背負った俺と、あいつと、何が違うってんだ」
眼下に横たわる正光を見下ろし、綾瀬は吐き捨てるように呟く。
涙は、止まっていた。
「がっかりしたか? てめえに偉そうに説教垂れた男が、重罪人だってことがわかってよ」
ねぎらいの言葉は、宗盛の口からは発せられなかった。ただ、何かを噛み締めるように渋面を作ってから、宗盛は別の意図を込め、深く頷いた。
「縁だな」
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